2015.11.27.
比較文化学科伊東 光浩

「比較文化学」は何をめざす学問か

「比較文化学」とはそもそも何をめざす学問であるのか、私の考えを述べた短い文章(「比較文化学とreciprocity」)を「KGU比較文化論集第7号」(2015年7月24日発行)に掲載しました。今回はその文章を紹介します。以下がその全文です。(なお、reciprocityとは、互恵性という意味です。)

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比較文化学とreciprocity
伊東光浩

比較に始まる思考は、何処をめざすのか。比較すると、見えてくるのは、違いである。違いを自覚すること、それが「比較」の当面の目的だろう。比較の対象が異文化である場合、「違い」の「自覚」は《他者》への気遣いとなる。気遣いは、関係性の質を変えるはずだ。
自覚された「違い」の《意味》を理解することは、より重要だろう。「理解」の停滞は、想像力の不全を導く。他者はその時、不分明な異邦人のままに滞留することになるだろう。人類的悲惨の根源的理由が、そこにある。《弱さと未開》が、危険なのだ。その《否認》が。
気遣いとは一面、警戒である。そうした不信のベクトル上に想定される諸々の展開に我知らず心躍らせる人々のことを野蛮人と呼ぼう。「野蛮」とは、違いを目印とする排除への戦略立案に狂喜する未開人に対する人類史的所見である。彼らの哀しき否認的停滞の性(さが)に憐愍しつつも、私たちはあくまでも、《進化》へのベクトルを希求する。「彼ら」の処遇に関しても、私たちは、排除の野蛮という近代的平等の手口においてではなく、なによりも、まず、その「否認」された「未開」に対する覚醒を促す臨床的啓蒙において、それがかなわなければ、その「否認」された「弱さ」を包容する人倫上の慈愛一般において、関係性の構築を「気遣う」ことになるだろう。『寛容論』を工具書として読んではならない。
「理解」の話に戻ろう。一般論として言えるのは、なにかを理解するためには既得の知識や資質が必要であるということだ。さらに、その理解が相互的であるためには、既得の知識や資質が前提として《共有》されていなければならない。人類におけるその「既得・共有」の「知識や資質」とはなにか。そのことの解明が重要である。解明の対象とされるその究極解は、同時にreciprocityの「前提」でもあるはずだ。それぞれがそれぞれに《私たち》であることの根拠から、その究極の「解」は《想起》されなければならない。

― 記憶の、彼方へ。 人になれ、奉仕せよ。
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どうでしょう。ちなみに今年は、1年次春学期開講の『異文化理解入門』および同秋学期開講の『合同ゼミナール』の講義で、上記内容に関わる、もう少しかみくだいた話をしているところです。比較文化学科も、そろそろ学科開設15年目を迎えます。単なる「論」(比較文化論)としてではなく、「学」(比較文化学)として「比較文化」の営みを位置づけなければ、そんな思いで書いた文章です。受験生も含めて、学外の方々からの批判的かつ建設的なご意見が伺えればと思っています。在学生は是非授業中に自説を開陳してください。