2010.01.21.
英語文化学科島村 宣男

ミルトンの影

アメリカ合衆国のバラク・オバマ (Barack Obama) 大統領の数ある名演説のなかでも、
とりわけ私の耳に衝撃的だったのは、民主党の大統領候補として行われたシカゴでの
「勝利演説」のなかに見える言葉です。

The road ahead will be long. Our climb will be steep.
〔私たちの前に続く道は長いものとなるでしょう。私たちの登る道は険しいものとなるでしょう。〕

生放送を聞きながら、私は身の震えを覚えました。
イギリス最高の詩人、ジョン・ミルトン (John Milton) の傑作叙事詩 Paradise Lost
(『失楽園』の邦訳タイトルでよく知られています)の一節を思い出していたのです。
それは、全12巻約1万行からなるこの長詩の第2巻の432‐33行、神 (God) の
絶対支配に挑戦して地獄に堕ちたサタン (Satan) の言葉です。

… long is the way and hard
That out of hell leads up to light.
〔地獄より出て光の世界に至る道程は長く、そして厳しい。〕

John Milton (1608-74)

形容詞の “long” が共通して選択され、二つの形容詞 “steep” と “hard” とは、
意味的に共鳴しています。
苛酷な状況から(前者は恐ろしい地獄の「可視の闇」(“darkness visible”) から、
そして後者は劣悪な経済状況の先行きの見えない闇から)脱出しようという断固とした
意思が表明されているという点で、両者は相通じるメッセージ性を有すると言えましょう。

17世紀の政治的・宗教的動乱期を生き抜いたミルトンは、ピューリタン革命によって
成立した共和国政府の外国語秘書官 (the Secretary of Foreign Tongues) を務めました。
王権の絶対支配に果敢に挑戦したミルトンの自由思想は、共和国としてのアメリカに
継承されて、この現代に息づいています。
オバマ大統領の英語が、類稀なリズム感に溢れていることは誰しも認めるところでしょう。
「引喩」(allusion) の手法で問題の演説のなかにミルトンの詩句を援用したのであれば、
オバマ大統領はミルトンの良き読者の一人ということになります。
果たして、これはミルトン研究者の端くれの戯言(たわごと)でしょうか?

研究者としての私の専門領域は、イギリス・ルネサンス期の詩の、それも比較的長い
「叙事詩」(epic poetry) の語法 (diction) と文体 (style) です。
詩の言葉は、音と意味とが見事に交響し合うのが最大の特徴で、その理解はけっして
論理的なものではなく、むしろ感覚的なものです。言葉を感覚的に理解すること、
これこそ語学の究極の目標なのです。若いみなさん、詩を読みましょう。

(英語英米文学科 島村宣男)