2021.07.02.
比較文化学科八幡 恵一

フランスの思い出その5

 なんだかんだあって住む場所が見つかり、大学の登録も済んで、いよいよ授業が開始となったのですが、正直なところ、大学についてはあまり(というかもはや)記憶に残っていません。大学で授業を受けることに加えて、あるいはそれ以上に大変なことがたくさんあって、ばたばたしているうちにすぐに学年末(フランスでは6月)になったという印象です。9月末から授業がはじまり、週にいくつかの講義を受け、並行して大学に併設されている外国人学生のための語学学校に通いました。大学院の修士課程だったため、授業はそれほど多くなく、受けたことをはっきり覚えているのは講義が三つだけです。どれも、先生がひたすら話をしているという文字通りの講義でした。内容は、やはり覚えていません(笑)。ただとにかく一生懸命に聞いて、許可を得て録音したものを家に帰ってからまた聞く、ということを繰り返していました。ノートもかなりとったのですが、どこかへいってしまいました。
修士課程なので当然、修士論文を書かなければならず、これは本当なら日本で書いて提出したものをフランス語に翻訳すればよかったのですが(周りはみんなそうしていました)、私の場合、指導教員の先生の指示で、いちから書き直さねばなりませんでした。
こうして、授業を受け、語学学校に通い、論文を書くあいまに、さらに滞在許可証の取得や銀行の口座開設を済ませました。最後の二つは、外国人にとっては(家を探すことを除けば)最初にして最大の難関なのですが、どちらも大家のマダムが本当に力になってくれ、滞在許可証については役所に電話で必要書類を問い合わせてくれたり、口座は手数料が安いからというので、郵便局にいっしょにつくりに行ったりしてくれました。本当なら、外国人はここがもっとも苦労するはずで、もっとも(悪い意味で)記憶に残っていてしかるべきなのですが、マダムの助力であっさり済んだため、やはりほとんど覚えていません。
ほかにも、論文のフランス語をみてくれたり、私が引きこもって勉強ばかりしているのを不憫に思ったのか、友人たちを招いてパーティをしているところに誘ってくれたり、本当にお世話になりました。いつも快活に笑って「ケーイ」と私を呼ぶマダムと、その横でじゃれているフィフィの姿は、なにかと大変だったあの時期の私にとって、フランスの温かさの象徴として、これだけははっきりと心に残っています。
ところが、最初の一年が終わるころ、私はパリ市内のある学校の寮に引っ越しをすることになりました。もちろん、当時の生活に不満があったわけではなく、かなり迷ったのですが、寮の家賃が安いことや(光熱費込みで月に3万円程度でした)、その学校が非常にレベルの高いところであり、受けられる恩恵が大きそうであったことが理由となり、最終的には引っ越しを決めました。
大家のマダムは残念がっていましたが、引っ越しの日にはなんと車を出して手伝ってくれ、本当に最後までお世話になりっぱなしでした。別れ際、その寮の門のところで、私は感極まって彼女に、「あなたがしてくれたことは一生忘れません」というようなことを言い、続けて「あなたは私の第二の母です」と言いました。感動の別れになると思い、ちょっと雰囲気に酔っていて、彼女がなんと答えるか、もしかして泣いてくれたりするかなと思っていたのですが、マダムは笑顔で一言、「みんなそう言うのよね」とだけ言って、私の肩をぽんぽんと叩くと、車に乗ってヴァンセンヌの家に帰っていきました(私はフランス式のあいさつで頬と頬をあわせるビズがまだ苦手で、彼女はそれを知っていたので私とはビズをほとんどしませんでした)。このあっさりした別れが、かえってその一年の彼女の優しさ、気遣いを凝縮したようなものに感じられ、ヴァンセンヌでの一年を締めくくる、とてもいい思い出として残っています。
もちろん、マダムとはそれきりというわけではなく、その後も彼女の誕生日(6月の音楽祭の日でした)に日本からのお土産をもっていったり、フランスを離れるまでたびたび会いに行きました。(続く)