教員紹介

国際文化学部教員コラム vol.198

2018.10.12 比較文化学科 鄧 捷

あの世でもiPhoneを使う?――中国人の死後世界の事情――

 夏休みの帰省で父の墓参りをした。雑草を抜き、墓石をきれいに拭き、花や果物、故郷(中国湖北省荊州市)の夏から秋に実る蓮の実を供え、さらに紙銭を焼いてあげた。紙銭はあの世で使うお金のこと、「天地銀行」発行と印刷してある。あの世でも不自由のない生活を送るようにしてあげることは大事と思われている。8月の強い日差しのもとで、紙銭を燃やす炎を囲んで、家族がそれぞれ近況を報告し、あの世の父の見えない力の見守りを願った。
 炎天下で墓参りする人がほとんどいなかった。これはもし4月初め頃の清明節(春分から15日目にあたる日に行う先祖祭)であれば、郊外の山麓にある霊園は祭りのように賑わうのであろう。死者に送る供物もいっそう豪華になり、紙銭のほか、紙で精巧に作られた家、別荘、ベンツやBMWの名車、さらにスマートフォンまで燃やされる。霊園付近にズラリと並ぶ、供物を売るお店も大繁盛だ。
 人が死んでもあの世で現世とさほど変わらない暮らしをしているように、中国人が何となく思っている。人が死んだらどうなるのか。中国人は一般的に死んだ後の存在状態を「鬼」と呼ぶ。その死後の状態について魯迅は1936年にすでに次のように看破していた。

 
 周知のとおり、我々中国人は、鬼(最近では、ある人は「霊魂」という)の存在を信じている。…だが、想像の中で鬼になっている期間は、当人の生前の貧富によって違っていた。貧乏人は、大抵、死後、輪廻すると思っているが、それは仏教から出ている。…死刑に決まった犯人が縛られて刑場へ赴きとき、「二十年後はまた男になるぞ」と大声で叫んで、恐怖の表情を見せないのである。まして、伝説によると、鬼の衣服は、臨終のときと同じだという。貧乏人は、いい衣装を着ていないから、鬼になっても、あまり体裁がよくない。実際、すぐさま胎内に投じて素っ裸の赤子になったほうが、はるかに得である。…
 いくらか金銭のある人は、輪廻するはずがないと思うけれども、そのほかに別にずばぬけた才覚もないから、心安らかに鬼となる支度をするしかない。だから五十前後の年齢になると、自分のために埋葬の地を探し、棺桶をそろえ、さらに紙銭を焼いて、まず冥界に貯蓄しておき、子や孫をのこして、毎年、供え物が食べられるようにした。これは、本当に、人間として生きているより幸福である。…      (「死」)

 
 「輪廻」「転生」は仏教からの考えであり、今世の否定を前提とするが、子孫を残して供え物が食べられるといった考えは儒教の宗族主義に由来し、今世を肯定することを前提としている。仏教と儒教は中国社会で互いに都合よく混ざり合っているところがあるが、後者の考え方はより強固なものであろう。伝統中国では、多くの人々にとって死後は今世の続きであり、ある意味で「永生」であり、「そこには『贖罪』、『浄化』などの語で表されるような死を経過した新しい存在様式への希求、いちど死ぬことによって、その死をとおして新しい生へのよみがえりをはたそうとする意志が、ほとんど見られない」(丸尾常喜『魯迅―「人」「鬼」の葛藤』、岩波書店1993)と研究者によって指摘されている。
 儒教の考えには「神」たるものがいるとすればそれは先祖たちである。あの世での先祖様の幸か不幸かは、現世に生きる私たちの生活に影響を与える重要な要因の一つとして考えられている。このような理屈があってこそ、生きている人間は死者を盛大に祭るわけである。昔は、村や町の一族は先祖を祭る立派な「祠堂」を作り、毎年祭祀が行われる。先祖への祭祀によって、生者と死者の間に祭り祭られる関係が結ばれ、村や町に共通した道徳的規範や価値観が形成され、宗族を基盤とした強固な共同体が出来上がるのであった。しかし、この伝統的共同体は近代以後の革命、戦争、都市化、経済発展などの波に曝されて、現在ではほぼ形がなくなってきた。
 2017年の中国で大きな話題になった連続ドラマの一つは『白鹿原』である。清末から人民共和国までの激動な歴史を生き抜く「祠堂」共同体の生き様とその崩壊を、西安郊外の「白鹿原」という農村にある白家と鹿家の50年間に及ぶ人間ドラマを通して描いた大作である。中国大地の広さ、深さ、起死回生の強靭さ、中国人の倫理と情感がひしひしと伝わる、全77話の、迫力と見応えを十分に備えた作品である。ドラマの中に、儒教倫理に背く自由恋愛をしたため「祠堂」共同体に拒まれ、やがて自らそれに復讐、挑戦する女性「田小娥」の奔放な愛と壮絶な死は最もハイライトになる。原作は1993年出版の陳忠実(1942-2016)の同名小説で、1997年第四回茅盾文学賞を受賞している。2012年に一度映画化されたが、重厚な物語は2時間余りの映像では十分に描けず、原作の読者からの不満が高かったので、今回は待望のドラマ化であった。小説の日本語版は1996年に中央公論者から発行している。
 現代の中国では、「祠堂」共同体は形がなくなったとはいえ、死に行く人にとって精神的な慰めはやはり子孫による記念(祭祀)であり、また生き残るものにとって先祖は変わらず庇護であり恐れである。その切っても切れない葛藤、及びそれをうまく利用するビジネスの本質を、中国のSNS空間で流行っているブラックジョークは見事に自嘲して見せている。一例を紹介しよう。

 
 客は供物を買いに行き、なんと紙細工のアップルiPhoneを見つけ、思わず店主に聞いてしまった。「ハハハ、iPhone5ですか。祖先たちは使いこなせますか?」
 店主は横目で彼を見て答えた。「お客様、ジョーブスさんでさえ自ら教えに下りていったのに、いまさら何をご心配!」そこで客は一つを購入し、帰ろうとしたが、店主はまた言った。「ケースを買わないの?下の世界はかなり湿っぽいですよ。」客はケースを承知したが、店主はさらにすすめた。「Bluetoothのイヤホンも買って行けよ、最近、下の世界でも新しい交通規則が公布され、運転しながら電話することへの取り締まりが厳しくなっていますよ。」そこで客は仕方がなくイヤホンも買った。店主はさらに善意的に商品をすすめ続けた。「最も大事なのは充電器よ。先祖様に充電器を焼いてあげることを忘れたら、先祖様はあなたを訪ねてくるかもしれません。訪ねてくるぐらいならまだましですが、もしあなたに充電器を届けに行かせたら、それはそれはマズイことになりますよ!」
 客はついに充電器も買い、そして店主に名刺を求めた。名刺をどうするつもりかねと聞く店主に、客は答えた。「先祖様に焼いてあげるのですよ。万が一、品質に問題があれば、先祖があなたを訪ねることができますから。」

 
 やれやれ、先祖様はあの世でもiPhoneを使っている?中国人だってまさかと思うのだが、それでも先祖にiPhone、いや、ケースもイヤホンも充電器も焼いてあげずにいられないのは、もう理屈不問の、世俗的な人間情理ゆえんであろう。また、その人間的な弱みを利用する悪徳商人を見抜く庶民の目も醒めていて痛快である。
 死者に対する中国人の過剰な現実主義の、形式化した祭りかたはやや異様に感じるかもしれないが、広く考えれば、その背後にあるのはやはり世界のどこにも共通する普遍的生死観である。死は恐れではあるが生と絶対的に対立するものではない。死者の肉体は腐りゆくが、その面影が残されたものの中に生き続け、折りにふれて、われわれに生の意味を問い掛けてくるのである。われわれは死者に背を向けて恣意的に生きるわけにはいかない。

 
 
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