ロバート・バーンズ(1759-96)はスコットランドの国民的詩人で、日本の歌と思われがちな「蛍の光」や「故郷の空」などの原曲が実はスコットランド民謡で、バーンズがこれらを収集、改作したことも英文学史上では有名です。昨年はスコットランドのイギリス連合王国からの分離独立の住民投票があり、結果は否決でしたがわが国でもニュースで広く伝えられました。また昨年の秋からこの春にかけて、NHKのドラマで国産ウィスキー製造を手掛けた人物の話が取り上げられ、スコットランドは現在日本で静かなブームになっています。しかし実は明治の初めから「イギリス」と理解していた事物の多くが正しくはスコットランド起源であったようです。わが国ではスコットランドとイングランドの区別があまり理解されていないのです。

イングランドの詩人ワーズワスと妹は、このバーンズがダンフリーズで亡くなった7年後の1803年にスコットランドを旅しますが、ボーダーを横切って最初に訪れた主な場所がバーンズ終焉のこの町でした。バーンズは生前すでに有名だったとはいえ、30代で亡くなった当時はまだ評価がそれほどでなく、ワーズワスにとってはこの頃書いたばかりの「決意と独立(‘Resolution and Independence’)」の中で、名指しは避けたものの不遇の内に亡くなった詩人として悼んだ一人でした。彼は当初ダンフリーズのセント・マイケルズ教会の隅の方に埋葬されましたが、ワーズワスが訪問して後15年近く経た1817年に壮大な霊廟(Mausoleum)が作られ、改葬されました。この間バーンズの評価が大いに高揚したのです。

8月というのに寒い小雨の朝、ダンフリーズに到着した私は先ずバーンズの墓があるセント・マイケルズ教会を訪れました。チャーチヤードを巡ると端の方に白い立派な廟が見えてきました。そこがバーンズ廟と推定できましたが、近づくと数人の若者がビールの缶を手にしてたむろしています。バーンズの墓はここかと聞くと別の場所を示します。酔っているようなので彼らを避けて墓地の反対側に行き、結局教会の中に入りました。入り口に年配の男女が数人いて、ボランティアで案内をしていました。そのうちの一人の高齢の男性が、私が英語を理解することを確認して教会内部を案内してくれました。彼の説明は主に第一次世界大戦の戦没者慰霊の話でしたが、堂内を一周した後、出口でバーンズの墓のことを聞くと、そちらにも案内しましょうということになり、先ほどの白っぽい廟の所に至りました。ビールに酔った若者数人はまだいましたが、彼と私を見ると慌てて散らかしていた缶を集めて立ち去りました。案内してくれた老人はそれほどの威厳があったようです。彼はさらに霊廟に移葬される前の墓の場所も案内してくれましたが、間もなく別の約束があると、教会の敷地を後にしました。

セント・マイケルズの前の交差点を渡ると、バーンズの妻ジーン・アーマーの最近建てられた記念碑があります。彼女はバーンズの子を9人産みますが、その最後の子が彼の葬儀の日に生まれ、また他の女性により少なくとも4人の子を儲けていたそうです。彼が亡くなると遺族に全国から注目が集まり、慈善基金が集められ、彼女はその後38年間夫が亡くなったダンフリーズの家に住み続け、遺児を育て、彼の名声高揚に尽しました。今日彼女が住んだ家はバーンズ・ハウスとして美しく改築され博物館となっています。バーンズはその後スコットランドから英国全体、そしてスコットランド系住民の多いアメリカ、カナダで愛され、また翻訳を通じてロシアでも人民の詩人としてソ連時代に賞賛を集めたようです。彼はその晩年、フランス革命を支持し、自由平等を訴える農民詩人としても知られていたのです。

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バーンズの墓があるセント・マイケルズ教会

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1817年建造のバーンズ霊廟

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1796年に亡くなった時のバーンズの墓地跡

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バーンズ・ハウス:ロバートは1791年から亡くなる1796年まで、ジーン・アーマーはその後1834年に亡くなるまでこの家に住み続け、ロバートの霊廟に葬られた

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この像は彼女を顕彰して2004年に建てられた

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ダンフリーズの町の中央、グレイフライヤーズ教会前のラウンドアバウトにあるバーンズの大理石像。あいにく手前の歩道が工事中

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ダンフリーズの町を流れるニス川とオールド・ブリッジと称されるデヴォーギラ・ブリッジ

以上写真は全て安藤撮影、2014年8月21日