去る2014年8月後半の15日間、文学部教員の短期在外研究の制度を利用し、スコットランドを一周してきました。独立の可否を決める国民投票を間近に控えていた現地は思いのほか平穏静寂でした。私の旅の主な目的は、詩人ワーズワスが妹ドロシーと当時の親友コールリッジとともに行った1803年の旅の足跡を辿ることでした。ワーズワスにとってスコットランドの旅は短期の友人訪問以来の、ドロシーとコールリッジには全く初めての経験でした。私にとってはロンドン大学の客員研究員だった1990年にエディンバラに数日行って以来で、ローランド、ハイランドの田舎を巡るのは文字通り初めてでした。
ワーズワスと妹ドロシーは英国湖水地方の生まれ育ちで、祖父母宅が湖水地方北東の外れ、カーライルに近いペンリスの町にあり、ビーコン・ヒルの遥か彼方に広がるスコットランドは、幼少期から憧れの地だったようです。彼らは一頭立ての軽装無蓋馬車を使い、フェリーに乗り、また歩いての旅でした。21世紀の私は空港から最近敷設なったトラムでエディンバラに入り、徒歩で市内を見て回った後、レンタカーを使いました。まずはローランド、そしてハイランドへはロッホ・ローモンド、アーガイルから、フォート・ウィリアム、ネス湖を経てインヴァネスに至り、コーダ城とカロデン・ムアを見てアヴィモア経由で、ワーズワス兄妹が到達した北東端ダンケルドに至り、最後はパースからエディンバラに戻りました。国際センター所員でもあった私は、本学の提携大学があるスターリングも表敬訪問したかったのですが、時間的余裕はありませんでした。
ワーズワスが1803年にスコットランド旅行をした目的は、新しい詩の霊感を得ることだったようです。結果として10篇近くの詩が出来上がりますが、その中には ‘The Solitary Reaper’ (「一人麦刈る乙女」), ‘Stepping Westward’ (「西の方に歩く」), ‘To a Highland Girl’ (「ハイランドの乙女へ」) ‘Yarrow Unvisited’ (「訪れざりしヤロウ」)といった有名作も含まれています。ワーズワスの一歳半下の妹ドロシーはジャーナル(日誌)を記していたことで有名ですが、この旅に関しても帰宅後に書いた回想記、Recollections of a Tour Made in Scotland, A. D. 1803 があります。兄ウィリアムはじめこの原稿を読んだ多くの人が高く評価しましたが出版の機会を失い、世間にお目見えしたのは兄妹とも亡くなってはるか後の1874年のことでした。
詩人、文筆家として当時すでに有名だったサミュエル・テイラー・コールリッジ(1772-1834)は、ワーズワスと1798年に有名な『リリカル・バラッズ』を出し、再版、第三版を重ねており、この時期は彼らがドロシーを交えて最も親しくしていた頃です。しかし不思議なことに、コールリッジは旅の途中、ロッホ・ローモンドの近くで兄妹とは別れ、その先一人でインヴァネスに至る旅をします。その様子は、コールリッジ自身の著述としても有名な「ノートブック」や、妻宛ての手紙などに描かれています。
このような三者三様の著作から当時の旅の興味深い様子を探ることができます。さらに景色に恵まれ歴史も豊かで、古いものがよく保存されているスコットランドの現地を踏査することは一層興味深い体験でした。
ワーズワス兄妹、コールリッジが1803年のスコットランド旅行で用いた類のIrish Jaunting Car: 図版出典:Wikimedia Commons;Created/Published: [c. 1890 ~ 1900]. This file is in the public domain.
私、安藤が2014年のスコットランド踏査で用いたレンタカー(英国ではハイヤー・カーという):トゥロサックス、アクレイ湖畔にて、8月21日撮影.
エディンバラ・トラム:エディンバラ空港から市内ヨーク・プレイスまで運行.2014年5月31日乗客に供用開始、写真は空港ターミナル、2014年8月27日撮影.
エディンバラ城:8月下旬はフェスティヴァルでミリタリー・タトゥーがあり、その観覧席が組まれている。2014年8月19日撮影.
オールド・タウンをエディンバラ城から東にロイヤル・マイル経由で行き着く先にホーリー・ルード宮殿がある。イギリス王族のスコットランドの本拠地で、背後のアーサーズ・シートという丘の景色も見もの。 2014年8月19日撮影.