2016.06.24.
比較文化学科伊東 光浩

「比較文化学」は何をめざす学問か Ⅱ

「比較文化学」は何をめざす学問か。わたしの考えを、ややかみくだいて述べた文章を、昨年『異文化理解入門』という1年次春学期開講の講義(必修科目)で配布の上、学生達に意見を求めました。今回はその時に配布した文章を紹介します。以下がその全文です。

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異文化理解入門 ―『蒼く 優しく(コブクロ)』のメッセージ ―

心の叫びなど 誰にも聴こえない
だから笑うんだよ 涙が出るんだよ だから輝くんだよ
自分らしさを探して 誰かの真似もしてみた
何かが違うんだよ 誰にも訊けないんだよ それでも探していたいんだ
(作詞:小渕健太郎、作曲:小渕健太郎)

「心の叫び」には音がない。そのままでは「誰にも聴こえない」、「誰にも」、届かない。「誰か」にそれが届く時、「叫び」は音に、かたちに、表現されている。そこに、野蛮と嘘はないはずだ。その音は「自分」らしい声で、そのかたちは「自分」らしい表情で、輝いているはずだ。その輝き〈が〉「笑う」んだ、「涙」するんだ。今、貴方は「自分」の声で、「自分」の表情で、「笑」えているか、「涙」しているか。貴方の「笑」顔と「涙」は、野蛮に曇っては、いないか。それが 「誰かの真似」(作為)ではないと自信をもっていえるか。
自信がないのなら、「自分」の「心の叫び」をつかまえようとしてみたら、どうだろう。

嘘つきの表現には、説得力がない。だから、伝わらない。届かない。
野蛮の表現は、曇(くも)り、爛(ただ)れ、澱(よど)む。だから「穢(きたな)いものを見せるな」といわれてしまう。

「自分らしさを探して、誰かの真似」をしてみる。するとたちまち「何かが違う」とわかる。でも、どうして「わかる」のだろう。「何かが違う」ことがどうして「僕」には、たちまち「わか」ってしまうのか。簡単だ。それは「僕」が「自分らしさ」に、気づいているから。「心の叫び」のモチーフは、説明できないのだけれど。その、「自分らしさ」を参照して「僕」は「野蛮」と「作為」を拒絶する。「何」がどう「違う」からなのか、説明できないけれど。問題は、そこだ。「探して」いるのは既に「自分らしさ」などではない。

「僕」が「探して」いるのは「心の叫び」が「誰か」に届く、その〈普遍性〉。表現を通して「輝」きが伝わる必然性の根拠を「僕」は「探してい」る。それは「誰にも訊けない」。最終根拠は「自分の」「心」の中に「探す」ほかない。それは「誰か」との交わりと共鳴の中で、「それでも」試行錯誤して見つける他ない希望だ。「誰かの真似」もその「(試行)錯誤(あせり、あがき)」の一つだろう。

普遍性を見つけた「僕」は、気がつくと、いつの間にか、「誰か」の「心の叫び」を受けとめられる「人に」進化している。最終的には「説明」できない「輝」きの最終根拠が「僕」や「誰か」にあるのではないことを「僕」はその時「説明」できる程度に「理解」している。

最後に貴方に訊ねてみたい。正解はもちろん、「誰にも訊けない」、のだけれど。

「僕たち」を「つき動かす」この「心の叫び」とは一体、何か。
どうして、この「心の叫び」は「僕たち」を「つき動かす」のだろう。
どんな地平線を見つめながら、「僕」たちはつながり合うのだろう。―おいで、「人」に。

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どうでしょう。曲(『蒼く 優しく』)をながし、学生達に考えを述べてもらったのですが、学生の反応は、コブクロの詩の解釈に関するもの(「ふかいっすねー」等)が多いように思われました。そのことも大事ではあるのですが、わたしの意図としては、自分自身の「根っこ」をとことん掘りかえしてみなさい、そこで発見される、貴方自身にとっての(実は)既得の〈普遍性〉は、必ずや「輝」いているはずだし、その「輝」きこそが「他者」に〈そのまま〉伝わるのだし、「他者」を〈ありありと〉理解する根拠でもあるはずだ、という、「比較文化学」が最終的にめざすゴールに関わる、私なりの問題提起的メッセージを、コブクロのメッセージにのせつつ、受講生の皆さんに届けてみたい、というものでした。

ご紹介した講義の内容について、受験生も含めて、学外の方からの批判的かつ建設的なご意見がうかがえればと思っています。在学生は是非授業中に自説を開陳してください。