昨年の8月、短期在外研究の許可を得て、イングランドのサウス・ウェスト地区に行ってきました。目的はイギリス・ロマン派詩人ワーズワスとコールリッジの出会いから、英文学史上有名な『リリカル・バラッズ』誕生の経緯を詳細に現地調査することでした。ロンドンのパディントン駅から鉄道でブリストルに入り、車に乗り換えサマーセット、デヴォン、ドーセット一帯から、最後は南ウェールズのワイ川河畔も訪問しました。中でも西サマーセットのクォントック・ヒルズからエクスムアは風景の美しいイングランドの中でも湖水地方と対照的な、なだらかな丘陵の美しい自然に溢れた地区です。この一角にコールリッジとワーズワスが住んだ1797年から1799年頃が、二人の天才詩人が出会って史上稀に見る幸いなコラボレーションを行い、英語文学の方向を決定付ける『リリカル・バラッズ』の生み出された時期にあたります。
エクスムアのカルボン地区にあるAsh Farm
の入り口:トラクターの轍がついた右の未舗
装道路を下るとAsh Farmのコテージ、左の
舗装道路の先Parsonage Farmがあり、
ともに「クブラ・カーン」を創作した場所と推定
されている。
しかしながら、間もなく二人の間には行き違いが生じます。この頃コールリッジが書いた、彼の詩としては頂点に当たる三大幻想詩の内「老水夫行」は『リリカル・バラッズ』初版の冒頭に入れられますが、残る「クブラ・カーン」と「クリスタベル」はワーズワスの反対で入れられず、コールリッジはともに未完のまま放棄します。15年以上たってコールリッジを尊敬する大貴族の詩人バイロンがこれらの未完の詩の価値を認め、彼の援助のもと1816年に出版が実現し、以降英文学史上最も幻想的な三大作全てが衆人の知る所となりました。
Parsonage Farmと使用したレンタカー:
英国ではカー・ハイヤーと言う。
このあたりは車の幅くらいの道しかなく、
人通りも稀でまさに秘境といえる。
三大幻想詩の中で最も短い断片詩「クブラ・カーン」はいわく付きの作品です。コールリッジはこの幻想詩創作に没頭するため家族から離れ、一人エクスムア北部の寒村のコテージを借り、アヘンの陶酔の中でこの詩を書き始めます。ところが、創作中に訪問客があり、詩作を中断して対応しなければなりませんでした。客が帰り、詩作を再開しようとしたのですが、そのとき既に霊感は彼から去り、もはや続きを書くことはできなかったのです。「モンゴル帝国のクビライ汗が首都上都(Xanadu)に歓楽のドーム建設を命じた」と始まるこの断片詩は、全くの想像力で書かれた詩で、その歓楽のドームとザナドゥ周辺の様子が描写された冒頭部は、クブラ・カーンの横顔が見えたあたりで終わってしまいます。
54行だけしかない断片詩ではありますが、ここには完成度の高い文学性があり、英文学史上最も優れた作品の一つと評価されています。この詩が書かれたコテージや、詩の中の自然描写に影響を与えたと思われるあたりの風景を現地調査してきました。この成果は何れ論文にまとめたいと思います。
今後も機会があれば、詩人たちの旅した足跡を追い、彼らの詩が作られた現場を訪問し、研究に生かしたく
思っています。
コールリッジが家族と住んでいたネザー・
ストウィの町から8マイルほど北西、海岸
の町Watchetにある彼の詩を顕彰する
老水夫の像。コールリッジは1797年に、
この港を訪問、『リリカル・バラッズ』所収
の「老水夫行」を創作した。
Culbone Combeカルボンの谷あいの
小さい教会。
Exmoorエクスムア北端から
ブリストル湾を望む。