中国語研修の学生を引率して、今年の8月、13年ぶりに北京を訪れました。2008年の北京オリンピックを経て、北京は伝統的な都市様式をかろうじて保存・改修しながら急速に近代都市へと変貌しています。学生たちと故宮を歩き、景山から北京を眺望し、前門にある全聚徳(ぜんしゅうとく)という、北京ダックの老舗本店に向かいます。前門駅でバスを降りると、美しい「牌楼」が見えてきました。2008年にリニューアルされた前門大街の入り口にある、標識的な建築物です。(写真:前門大街と牌楼)牌楼とは、どんな意味を持つ建築物でしょう。牌楼は一般に寺や墓、役所、園林の入り口、道の交差点に建てられるアーチ形の屋根付き門です。
北京は役所と寺が中国で最も多い都市であるため、牌楼も最も多く、かつては百基余りもありました。また、牌楼は牌坊(はいぼう)とも称され、元代に起源するといわれています。元の都「大都」(現北京)では、街や胡同(こどう、またはフートン)は、居住区の基本単位である「坊」によって区画されていました。管理のため、街の標識として各「坊」に牌楼(牌坊)が建てられたのです。牌楼の材質や形は様々で、風格も異なります。
中国ではそもそも、門は王城の治安のために、夜に閉じられ、朝に開かれるものでした。常に開かれた門である牌楼には、邪気の王城への侵入を防ぐという意味も込められており、古来より重んじられてきました。
さて、2011年8月の前門大街を歩いてみましょう。清朝末期から民国初期の町並みを再現した前門大街には、20年代を思わせる路面電車が走り、レトロ風の真新しい建物に、老舗と現代の国産メーカや外国の有名店が軒を連ねています。北京ダックの全聚徳、シューマイの都一処、お茶の張一元、漢方薬の同仁堂、布の瑞蚨祥(Ruifuxiang)といった清朝から続く老舗や、愛慕(Aimu)、美邦(Meibang)、李寧(Lining)など現代中国のブランド、そして星巴克(スターバックス)、H&M、SEPHORA、UNIQLO(ユニクロ)、ナイキ、VERO MODA、哈根達斯(ハーゲンダッツ)、ZARA、Swatchなど世界の名店も集まっています。牌楼という中国の伝統的標識に守られ、懐旧風の建物には詰め込まれているのは、新旧と中洋の混交する世界基準の都市の欲望と言えるかもしれません。
世界の観光客に媚びるような、この「中国風」贋造物(がんぞうぶつ)に喪失感を覚える一方、正直なところ、ホッと胸をなでおろしました。テレビや雑誌でよく取り上げられる「反日デモ」や中国のナショナリズム問題に、日本で暮らす私はいつも関心をいだいています。北京の町を歩き「牌楼」を眺めながら、私は「反日デモ」や中国の若者のナショナリズムは、本当はこの前門大街の「牌楼」のように形ばかりの存在に過ぎず、その裏には世界共通の物欲の世界が広がっているに違いないと思うのです。(北京滞在中に中央テレビで放送していたドラマ「金枝玉葉」は、現代上海の「セレブ」世界の愛と欲望を描いたものです。)
ところで、1938年前後に北京を訪れた、ある「日本人」が「牌楼」について詩を残しています。場所は残念ながら前門ではなく、東四です。
円弧を切断し 空間を区切るために
これらの牌楼が存(あ)るのではない
穹窿(おほぞら)をかけめぐる魂が
こゝで 郷愁を満喫して 挨拶を噛みしめる所なのだ
――江文也「東四の四牌楼」――(『北京銘』より)
詩人を括弧付きの「日本人」としたのは、彼を日本人と呼んでよいのか、躊躇(ちゅうちょ)したからです。詩人の名は江文也、本業は音楽家です。1910年に日本の植民地・台湾に生まれ、4歳の時に中国福建省厦門に移住し、14歳で日本に渡り作曲を学びました。1936年には「台湾舞曲」によって、第11回ベルリンオリンピックの音楽部門で第4位に入賞し、日本で音楽家として名を馳せます。1938年に北京師範大学の招聘を受けて日本占領下の北京に赴任し、1983年に北京でその生涯を終えました。
彼の詩集『北京銘』(青梧堂1942年)は北京の名所を歌った詩集です。日中戦争の最中、中国の大地を見つめた準日本人(日本植民地台湾に生まれ、中国を血統上の祖国として持つ「日本人」)としての苦悩も詩集の後半に吐露されています。一風変わったガイドブックとして『北京銘』を手に北京を歩くのも、時空を超えた素敵な旅となるでしょう。江文也は戦時中に日本に協力的な戦争音楽を作ったため、戦後の中国で有罪とされ、死ぬまで日本に戻ることができませんでした。