大学で英語を教えていると、当然ながらネイティヴ・スピーカーの英米人とのお付き合いがあります。40年近く教員生活を続けてきた私が、本学に赴任する以前に最も親しくした、ある英国人を仮に「スミスさん」と呼んで想像力豊かに回想します。
1960年代に十代を地方で過ごした私にとっては、英語に関心があっても大学に入るまで英米人と接触する機会は皆無で、スミスさんは私が接触した初めての英国人教師でした。彼は英国の名門大学出身で、当時まだ40歳代でしたが、頭頂部は見事に禿げていて彼の風貌の特徴をなしていました。彼は英会話と英文学概論の2科目担当でしたが、90分授業の半ばで必ず小休止し、教室から出ていくので何をしに行くのか不審で、ある時一人の学生が後をつけていくと、煙草を吸っていたそうです。どうも彼の息は酒臭いとの噂もありました。英語のみの授業は多人数クラスでさほど印象的ではありませんでしたが、特に問題もなく、彼のユーモラスな人となりや、当時の在日外国人には珍しかった、非常に友好的な温厚さが記憶に残りました。スミスさんは学者ではなく、上級の専門科目や大学院の担当はない非常勤講師でしたので、その後彼と学生として接触することはありませんでした。
その後私は、教授がすべて日本人という英語系大学院を経て、大学の教職につきました。教歴の当初には、わずかに英米人と接触する機会もありましたが、10年ほどは小規模校の一般教育の英語のみ担当で、英米人教員は皆無、留学にも大金のかかる時代でした。数年後、勤務校にも英語の専門学科を作ることとなり、当然のように英米人教員招聘が決まりました。若いアメリカ人女性に加えてもう一人、近隣の大学を早期退職する英国人を専任として採用することになりました。後者がなんとあのスミスさんでした。いつの間にか就任していた前任の大学でも、その温厚で愉快な人柄から、多くの友人がいたようです。
学生時代から20年近く経て再会したスミスさんは、やや老けたものの風貌は以前と同じ禿げ頭と、いたずらっぽそうな優しい目がほとんど変わっていませんでした。十数年ぶりでネイティヴ・スピーカーと英語でコミュニケーションをとるようになりましたが、何の違和感もなくスムースに意思疎通ができました。これ以降彼とは同僚として、授業や学内運営、自分の英語論文のネイティヴ・チェックを頼むなど、いろいろ助け合うようになりました。人付き合いが決してよくない私ですが、当時幼い子供を育てていた我が家庭にも招き、夕食をふるまうことさえありました。当初彼のことを怖がっていた幼い娘を含め、家族も彼が普段ひとり暮らしの外国人ということもあり、特別な意識があったようです。
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当時彼は老境に入り、大学の近くのアパートに一人暮らしで、子供たちは英国の大学で勉強中、イギリス人の奥さんもヨークシャーの持ち家に戻りがちということでした。しかし残念ながら、スミスさんとの仕事上の付き合いは間もなく縮小しました。学内事情で、彼は他学部に移動になったのです。しかしその後も個人的な付き合いは続き、ある年の正月明けに彼の英国人の奥さんも一緒に我が家を訪問してくれて、子供たちと一緒にトランプなどしました。ババヌキを英語で “Old Maid” というのをこの時知りました。
スミスさんとの付き合いが続く中、設立に私も関わった英語専門学科は順調に学生を集め、偏差値もかなり上がり、海外語学研修等の行事なども安定したので、当時普及し始めた教員の在外研究制度を利用して、私も英国と米国の両方で客員研究員(Visiting Scholar)を経験することになりました。この間に他にも英米人の同僚や現地の研究者とも知り合い、親しくしましたが、今でも連絡があるのはカリフォルニア在住のある老研究者のお一人だけです。この方のこともいつか述べたく思っていますが、いずれにしてもこれまで国内外を含み、スミス先生ほど長期間親しくおつきあいした英米人はいませんでした。相変わらず、ややアルコール中毒気味か、いつも酒臭いとの噂もあり、酒の上での危機すれすれをかわしたとか、かつて他大学で仕事の上でトラブルがあったことを伝える人もいました。彼自身からも、日本人女性にもてたことも聞きました。このような、やや不都合な話を聞いても、なかなか憎めない人柄で、転属先でも親しくする教員が少なくなかったようです。
その後スミスさんは奥さまと、もう一度我が家を訪問されましたが、サプライズ・ヴィジットで、たまたま私以外の家族は不在で家の中も散らかしていたので、家の中に入っていただくのをためらいました。せっかく子供たちにプレゼントを用意してくれていたのですが、門前払いをする形になってしまい、奥様の不興を買ったようです。実はこの時奥さまはスミスさんに帰国を促しに来日していたようです。70歳近いスミスさんでしたが、退職までもう数年残していました。『水戸黄門』や『大岡越前』も愛するスミスさんは日本に骨を埋めるつもりだったようですが、奥様の望みは最晩年に帰国して英国の土に戻ることで、夫に、帰国しないなら離婚とまで迫っていたようです。お二人の関係はよくわかりませんでしたが、結局離婚されることとなりました。別の友人からは、この結果に彼が涙を見せたと聞きましたが、このしばらく後、スミスさんはある旧知の日本人女性と再婚しました。この方も某近隣大学の教授でしたが、老境に入ってなお女性にもてる彼だったようです。あるいはこの女性との関係が離婚の原因の一部だったかもしれません。英国人の奥様を知る私にとっては、しっくりしない気もしましたが、簡素なご披露にも招かれ、ともかくも彼が通常親しくしていた友人たちの小グループで再婚のお祝いをしました。彼は引退後の最晩年を、長く愛したこの日本人女性と暮らすことにしたのです。
何年か経たある日、突然彼の逝去の知らせが届きました。当時の勤務校に併設のチャペルで葬儀が行われるということで、私も参列しました。たくさんの参列者がありましたが、スミスさんが在職中私と同じ程度の付き合いがあり、彼と同じく退職していた先輩教授に久しぶりに会い、並んで彼の逝去を悼みました。喪主は日本人の奥さまで、親族は英国の前妻との間の成人したお子様二人の参列でした。離婚した英国人の奥様の姿はありませんでした。長女は英国の大学で教えていたそうです。長男はニュージーランドで弁護士をしていると聞いていましたが、彼はスミスさんとそっくりの若禿げでした。彼らと話をする機会はありませんでしたが、葬儀の途中、彼との30年に渡る付き合いのことが思い出され、人知れず涙が止まらなくなりました。
まだ20世紀だった時代の話です。
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