フランスの人たちはとにかくよくしゃべります。私自身、留学中にフランスの人たちと話していて、こちらがまったく口を挟めず、ひたすら聞き役になるということが何度もありました。これはフランス人のあいだでも同じことで、私はよくフランスのラジオを聴くのですが、そこでも、パーソナリティの人がゲストのおしゃべりを止めるのにしょっちゅう苦労しています。もっとも、彼らの話す内容がすべて重要なことばかりかというと、必ずしもそうではなく、たとえばフランス映画を観ていて、俳優さんがかなりたくさんしゃべっているのに、日本語の字幕は一行、なんてシーンを目にしたことのある方もいるのではないでしょうか。
とにもかくにもフランスの人たちはよくしゃべる。彼らと対等に会話するには、多少強引にでも、会話の流れをむりやり断ち切ってでも、その話に割って入り、自分の意見を論理的に展開する能力、もとい度胸が必要です。彼らのこのおしゃべりの力は、教育によって養われるものなのか(フランスでは高校で議論を主体とする哲学の授業があります)、あるいは社会によって要請されるものなのか(自分の意見をきちんと主張しなければ生きていけない)、ちょっと難しいところですが、いずれにせよフランス人はみなおしゃべりが好きなんだと、私はずっと思っていました。
ところが、留学中に出会ったある男の子の話を聞いて、考えが少し変わりました。彼はフランスの大学(では厳密にはないのですがともあれ大学のような学校)の学生で、日本が好きで日本に留学しました。折しも東日本大震災の年で、関東ではなく関西の大学に留学したのですが、一年の留学で関西弁をほぼ完ぺきにマスターするという天才ぶりを発揮。日本はどうだったかを聞いてみると、彼は、日本人の「空気を読む」という習慣が素晴らしいと思った、というのです。「空気を読む」というのは、日本ではあまりよいものとは思われませんが、彼は、フランスのなんでも言葉にする、言葉にしなければならないという、それこそ空気がしんどく、あるいは日本人と接するなかでそれがいかにしんどいことかに気づき、言葉にせずとも伝わる、という別種のコミュニケーションのあり方に深く感銘を受けたようでした。
もちろん、「空気を読む」ことには、以心伝心の意味のほかにも、その場に合わせた慎みを強要するという意味もあり、一概に理想的なコミュニケーションとはいえず、またべつのフランス人の友人は、日本人は本音をはっきりいわずいつもまどろっこしいと不満を漏らしていましたが、それでも、つねに過剰なおしゃべりのなかで生きており、すべてを言葉にすることで日々生きている(生きざるをえない)フランスの若者が、その対極にあるがごとき日本のコミュニケーションを受け入れ、それに憧れをもったというのは、非常に印象深い話で、話すべきなのか話さないべきなのか、理想的なコミュニケーションとはいったいなんなのか、ちょっと考えさせられました。(続く)