春学期の授業がすべて終わりました(というタイミングでこの原稿を書いています)。この記事が掲載される頃には、学生の皆さんは夏休みを満喫中でしょう。今回は、春学期の講義「フランスの文化と社会」を行いながら感じたことを書いてみたいと思います。
講義ではいつも受講生の皆さんが寄せてくれるコメントを楽しみにしています。今学期も皆さんたくさん書いてくれて(写真参照)、講義後にコメントカードを読みながら、教えられること、考えさせられることが多々ありました。全部読むのはもちろんのこと、パソコンにすべて打ち込んで、翌週の講義でフィードバックするばかりでなく、自分のための貴重な資料にしています。
さて、そのなかで、ここでは、フランスの哲学者にして小説家・評論家でもあったジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の小説『吐き気』〔邦訳題は『嘔吐』〕(1938)の抜粋を3回にわたって読んだとき、次いで、同じサルトルの戦後すぐの講演「実存主義はヒューマニズムか?」(1945)を読んだときのコメントをめぐって考えてみたいと思います。
サルトルの小説『吐き気〔嘔吐〕』は、アントワーヌ・ロカンタンという30歳の男の手記という形を取っています。ロカンタンは歴史学の論文を書こうとして3年前からブーヴィルという港町に滞在し、図書館通いをしています。そんな彼はある日、海辺で水切り遊びをしようと石を拾ったその瞬間に、妙な感覚に襲われて石を取り落としてしまいます。手の上に、石の存在を感じてしまったのです。それまで意識することのなかった石の触感や重み、それは彼に曰く言いがたい、何か収まりのつかない感じを与えました。タイトルの「吐き気」というのはこのことです。モヤモヤした感じ、というくらいが理解しやすいかもしれません。
そのときから、彼のまわりであらゆるモノが存在し始めます。この「存在」という言葉をことさらに難しく考える必要はありません。ただたんに「ある」ということです。けれども、「ただたんにある」ということを私たちは普段見つめることがありません。ロカンタンはそれが見えるように、感じられるようになってしまったのです。授業では、ロカンタンの行く先々で、レストランのナイフやスプーン、電車の椅子、海やカモメ、そして公園のマロニエの木の根が「存在」し、彼の「吐き気」が頂点に達する描写を皆で読みました。最初は面食らった人も多かったようでしたが、黒板やチョークを例に事態を辿り直した上で、「文字の場合にも同じことがありうるのでは?」と補助線を引いたら、とたんに思い当たる人が増えたようで、自分も似たような感覚を覚えたことがある、というコメントが驚くほど多く見られました。そしてまた、何人もの受講生が、「これはゲシュタルト崩壊ですよね」と書いてくれました。確かに、ロカンタンが陥っているのは、黒板なりチョークなりを「黒板」として、「チョーク」として捉える枠組み、輪郭としての「図=ゲシュタルト」がなくなってしまう事態ですから、「ゲシュタルト崩壊」と言えるでしょうね。皆さんの直感はとても鋭いものです。
「ナイフ」ではないナイフの存在、「椅子」ではない椅子の存在を感じるようになったロカンタンはどうなるか、というと、人間である自分も同じだ、と思い至ります。自分も同じように、名前に収まらない、枠組みに収まらない、意味・用途・目的に収まらない存在、つまりは「余計なもの」ではないかと。では絶望して自殺するか、というと、彼はそんなやわなアンチ・ヒューマニストではありません。なぜなら、自殺も余計、死体も余計、だからです。出口なし、です。
3回にわたってこの小説に取り組んだ後で、サルトルが戦争直後に大勢の聴衆を前に行った講演を読みました。戦後の荒廃からどうやって立ち直ったらいいのかと不安を抱いている人々に希望を与えただろうことがよくわかる、きわめてポジティヴな内容です。この講演でサルトルは、上記の論理を転倒させます。いや、実は人間についての見解は変えないのですが、モノについての見解を変える、というより、歪曲します。サルトルはこんなことを言います。ペーパーナイフは職人がある用途に従って製作したものであり、その本質(=ピンポイントの用途・目的)は存在(=ただたんにあること)に先立っている、しかし、人間は生まれるときに目的や意義を定められていない、だから自分の存在意義は自分が決める、つまり存在が本質に先立っている、だから人間はモノと違って、無限の責任を負っていると同時に無限の可能性に開かれているのだ、と。
この回を終えて、皆さんのコメントを読んで、正直なところ、驚きました。まず、ほとんどのコメントが『吐き気』とのギャップを指摘していて、「同一人物なのか疑った」と書いた人もいました。ここまではいいのですが、驚いたのはその先です。「ネガティヴな戦前サルトルとポジティヴな戦後サルトルなら、戦後サルトルを支持します」といった、「ポジティヴなサルトル」支持を表明するコメントが九割ほどを占めていたことです。これは予想外でした。残り一割のなかには、次のようなコメントがありました。「〔戦後講演で〕大衆にそってしまったというのが、好きだったインディーズバンドがメジャーデビューした、みたいな悲しさがある。全てのものの存在の不安定さ、胡蝶の夢のような夢か現かわからない、まさにゲシュタルト崩壊した世界にすっと投げ出されたような、ぐにゃぐにゃして不安定な世界の方が好き」。
その翌週の講義で話したことなのですが、大学の講義は自己啓発セミナーでもなければ、社会に出て上手く生きてゆくための処世術を身につける場でもなければ、生きる勇気を与えてもらう場でもありません。数年後には社会人になる一人として、皆さんが、通勤電車のなかでロカンタンのように椅子が赤い繊維の塊に見えてきたら困る、自分を肯定してくれるポジティヴな戦後直後のサルトルの方がいい、と考えるのは分かります。けれども、ここでは一歩引いて眺めてみてください。『吐き気』の論理から講演の論理への変化において、おそらく故意に消去されたのは、もしくは隠蔽されたのは何でしょう。それは、モノが存在する、ということです。この論理の変化において、モノは「道具」に還元された上で、人間から切断されました。しかし、本当でしょうか。すべてのモノは人間にとっての道具でしょうか。ならば、あの小石は、海は、マロニエの根は? はたまた、壊れて使えなくなったペンは、機械は? 戦後すぐのサルトルは、この次元をあえて無視し、人々に希望を与えることを選びました(後に彼はこの講演を否定します)。
けれども、私たちはこの講演の聴衆に自己同一化する必要はありません。むしろ一歩引いて眺めて、やはり人間とモノは完全には切り離せないところがあるのではないか、なぜなら、すべてのモノが人間のための道具であるわけではないのだから、と問いかけてもいいのです。
「人間は○○と違う、だからすばらしいのだ」という型のヒューマニズムには注意しなければなりません。「○○」には、「モノ」(無機物)の他に、「機械」や「動物」が入れられます。この言説を発しているのも受け取っているのも「人間」であり、いずれもこの言説に自己肯定感を与えられ、満足感(「生きる希望」)を得ることができます。しかし、この型の言説は、「○○人は○○人と違う、だからすばらしいのだ」という差別化の言説に容易に変形されえます。この言説が「ポジティヴ」なのは、「すばらしい」とされる「自分」にとってだけです。逆に言えば、これは真実を追求するための言説ではなく、「自分」にとって「ポジティヴ」になるように性急に作られた、「ポジティヴのためのポジティヴ」な言説であるにすぎません。
「ポジティヴのためのポジティヴ」なら、少なくとも大学では手放してみてください。差異の検討はもちろん十分に行われてよいのですが、「自分を含むAはBとは違う、だからAはBと違ってすばらしい」という型のポジティヴ・シンキングに終わるくらいなら、結論を出す必要はありません。出口なし、でいいのです。
とはいえ、たくさんのコメントを寄せてくれた(今学期だけでなく、これまでのすべての)受講生の皆さんに、心からお礼を言いたいと思います。本当にどうもありがとう。