2010.06.17.
比較文化学科伊東 光浩

研究室から

最近書いた論文の冒頭の部分を引用してみましょう。

使役表現について考えようとする場合に、現代の我々が、通常その典型(雛形)として思い浮かべるのは、恐らく、強制もしくは命令等による積極的関与(介入)が認められる、誰かに対して有無を言わせずに何かをさせるといった意味内容のそれであろうと思われる。使役表現に対する私達のそうした見方が、はたして使役というものの本質にそくした、通史的にみても普遍的かつ有効な見方であるのか、それとも、現代人に特有の、やや偏った見方であるのかという点に関しては一考の余地がありそうではあるのだが、使役表現というものを、そもそも、
或る動作に対する二つ(或いはそれ以上)の主体の、その動作表現の担い手としての直接的間接的同時関与の表現である。
と定義し、その意味構造を、

動作主
使役主→ ↓
動作

のように分析的にとらえようとする限り、動作主の具体的な動作内容にかかわるその実働性(〈自分《の力》によって推進されるactiveな動作〉感、とでもいうべきもの)と同時に、使役主におけるその関与の自律性(〈他の意向から独立した、使役主みずからの判断に基づくindependentな関与〉感、とでもいうべきもの)を、解釈される使役性との、正(プラス)の相関においてとらえようとする、上記現代人の一般的なとらえ方は、一応、理にかなったとらえ方であるように思われる。

上に引用した論文をひと月前ほどに書き上げて、現在は青谿書屋本土佐日記とにらめっこの日が続いています。

(比較文化学科 伊東光浩)