2012.01.13.
比較文化学科矢嶋 道文

お芋畑と私の漢方研究


【2010年で一番嬉しかったこと】
2010年で一番うれしかったことは、文学部の一角にある畑でサツマイモが採れたことです。
ここ数年、作ってはきたのですが、2010年はとても夏が暑く、ずっと葉が枯れ気味でした。大学院生数名と水撒きはしてきたのですが、お芋ができているのかどうか心配でたまりませんでした。
収穫の11月3日、この日はホームカミングデーです。数年前、卒業生のお父さん達は楽しいそうですが、子ども達が退屈そうでしたので、お芋つくりを考えました。お子さんがお芋堀を楽しみにすれば、お父さん達も参加しやすいかなーと一挙両得を考えました。
3日の当日は、卒業生のFさんの指導のもと、何と30名を越える子ども達が3列に整列し、3班に分けてのお芋堀となりました。
お芋は夏枯れのせいか小ぶりでしたが、中には大きいものもあって、子ども達は本当に嬉しそうでした。2011年はホームカミングデーを六浦で行いましたのでお芋作りはお休みですが、いつでも作れるように職員のFさんが落葉を用意してくれましたので、畑の上に蒔きましたら、土と混ぜなくてはだめだと叱られました。
2011年のある日、懐かしく思い畑を見に行きました。何と、2011年の畑からサトイモが芽を出し、20センチぐらいに成長していたのです。嬉しかったですねー。孫をみる気持ちでした。

【貝原益軒『大和本草』と栽培生薬】
2011年の夏は、岩手(家内の実家)にすごしました。貝原益軒の書いた『大和本草』を読むためです。漢文の難しい文も多くありましたが、友人で漢籍を専門にされていらっしゃる三澤勝己先生(本学非常勤講師)にご教示を得ながら読み進めました。内容は、江戸時代中ごろの漢方薬についてです。益軒が対象にしている漢方薬は、野山にある自生の草(生薬)で、採集の時期や土地、製薬上(煎じ方)の注意が細かく書かれています。2010年夏に読んだ宮崎安貞の『農業全書』は栽培に重きが置かれていましたが、益軒は医者ですので、病気への対処(臨床)が主となっています。幸い、数年前に北里大学の東洋医学研究所(医史学研究部)小曾戸洋先生にご教示を得る機会を得ましたので(国内留学)、薬の名前は多少分か るようになりました。また、同時期に2年間学んだ漢方講座(日本漢方協会主催)も有効でした。これから、江戸時代全国に薬草を採集した本草家の日記や、薬草を利用した民間療法について学ぶのですが、完成には5年ほどかかりそうです。
私の漢方研究のきっかけは、江戸時代「鎖国」論からです。江戸時代を通じて、幕府は高価な漢方薬などを輸入していましたが(長崎貿易)、その代償として、多量の海産物(中国料理の高級食材)を輸出していました。何と、天明・天保の飢饉下にも同様でした。また、江戸時代には飢饉下にも米など食糧に緊急輸入策は一切なく、自給を保っていました。このことが、私の「鎖国」=自給自足論につながっているのですが、長崎貿易による輸入漢方薬
などが果たして「国民的であったのか否か」(多くの国民にとって必要なものであったのか否か=大名・富裕商人層への需要品ではなかったのか)に関心があります。この問題を解明するには、当時の国内において漢方薬の大半が自給さ れていたかどうかを調べなくてはならなくなったわけです。見込みとしては、 輸入漢方の多くの需要は限られた階層のもので、国民の大半は、野山で 採集された自給生薬を用いて生活していたと踏んでいます。
しかし研究は実証し得るか否かが生命線ですので、江戸の本草学者の漢方生薬に用いる植物理論と実践を粘り強く追って行きたいと思っています。

白虎隊の戦地会津若松
「飯盛山」にて