今年のノーベル文学賞は、中国人作家莫言[ばくげん、MoYan]に授与することになりました。中国国内で「初」のノーベル賞受賞者として大きく報道されました。<注1>
その著書は売り切れが続出し、新たに出版が計画されている全集も予約が殺到している様子です。
莫言といえば、まず『赤い高粱(コーリャン)』を思い出す人が多いでしょう。特に張芸謀(ちょうげいぼう、ZhangYimou)が初監督した同名の映画は、1988年のベルリン映画祭で「銀熊賞」を受賞したことで広く知られています。私は莫言の文学世界に魅せられる前に、まずこの映画によって圧倒されたのです。
この映画を見たのは学生時代の北京大学のキャンパスの中の映画館
(大講堂)でした。87年か88年かもうはっきり覚えていませんが、監督が自ら映画を携えてやってきました。上演終了時、ラストシーンの、真っ赤に染まる銀幕を背に若き張芸謀が颯爽(さっそう)として登場した場面は、映画の深い感動とともに脳裏に鮮明に刻まれたのです。北京大学の学生はこの作品を強烈に歓迎しました。当時はまだはっきり分かりませんでしたが、現代中国の歴史は大地に生きる民衆を主人公とした神話的物語によって新たに語られるのであろう、といったような興奮じみた予感を、映画の破天荒なストーリと刺激的な色彩を通してひしひしと感じとったのです。
小説『赤い高粱』は、現在(80年代の中国)を生きる「私」が語る、抗日運動が最も激しかった山東省高密(ガオミー)県東北(ドンベイ)郷に生きた「祖父母」の歴史を、描いた物語です。祖母である纏足(てんそく)(中国では、女性の足を大きくしないため、子供の時から布で固く縛り、発育を抑える風習。宋代から清末まで流行した)の美しい女性は、「麻風」病(ハンセン病)持ちの酒造屋の息子と結婚させられますが、婚礼の輿(こし)を担ぐ逞(たくま)しい青年(祖父)と恋に落ち、広大な高粱畑の中で奔放に結ばれて、ついに祖父と共に酒造屋を乗っ取っていきます。やがて日本軍がこの地に侵攻してきますが、祖父は抗日ゲリラのリーダーとなり、日本軍と死闘を繰り広げ、ゲリラ兵の為に食糧を運ぶ祖母も戦闘に巻き込まれて、真っ赤な高粱畑の中に倒れて死んでしまいます。
「高粱(コーリャン)」とは中国東北地方に栽培され、高さ1〜5メートルにも成長する植物であり、食料、飼料また酒の原料として用いられます。その実が熟れると真っ赤になります。高粱畑はどのように描かれているのか、『赤い高粱』の中の一節を見てみましょう。
――「祖父と祖母は生気が満ち溢れる高粱畑の中で愛し合った。人間社会の法規を無視した二人の自由な心は、互いに歓喜に酔いしれる彼らの肉体よりも、しっかりと一つに結ばれた。高粱畑で交わされた彼らの情愛は、我が高密東北郷の多彩な歴史に、新たに一抹の柔らかな紅を添えた。私の父はまさに天地の精華をうけて孕(はら)まれた、苦痛と狂喜の結晶だ。」――
『赤い高粱』に描かれているのは、大地に逞しく生きる普通の人々の生死と溢れんばかりのエネルギーです。そのような物語から、激動の中国現代史の本当の姿が読みとれるのです。莫言の文学が「魔術的なリアリズム」といわれる所以は、このように、幻想と現実が入り混じったストーリを語ることによって、「村の遠い記憶を掘り起こし、今の暮らしを見つめること」にあります(藤井省三「農村からの魔術的リアリズム」、2012年10月16日『朝日新聞』)。
ちなみに莫言の文学における「高密(ガオミー)東北(ドンベイ)郷」という文学的地理名は、川端康成の「雪国」から啓発をうけて誕生したものです。これについて莫言は日本語版の自選短編集『白い犬とブランコ』(日本放送出版協会、2003年)に寄せた序文の中で次のように語っています。
一九八四年の冬のある寒い夜、わたしは明かりの下で川端康成の名作『雪国』をよんでいた。
「黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた」という文を読んだとき、私の脳裏に電光石火のごとくにある着想が浮かんだ。すぐさまペンを取りあげたわたしは、原稿用紙に次の文句を書いた。
「高密(ガオミー)県東北(ドンベイ)郷産のおとなしい白い犬は、何代かつづいたが、純粋種はもう見ることが難しい」
この一句は、…(中略)…わたしの小説に「高密県東北郷」なる文字が現れた始まりで、それからというもの、「高密県東北郷」がわたし専属の文学領土となった。
わたしもそこら中を彷徨い歩く文学乞食から、その領土の王となった。
(「あの秋田犬への感謝をこめて」)
莫言は長編小説が多い作家です。上述の短編集以外、日本語で読める長編小説は主に以下になります。
『赤い高粱』『赤い高粱(続)』(井口晃訳、徳間書店、『現代中国文学選集』、1989年、1990年)
『酒国』(藤井省三訳、岩波書店、1996年)
『豊乳肥臀(ほうにゅうひでん)』(吉田富夫訳、平凡社、1999年)
『白檀の刑』(吉田富夫訳、中央公論新社、2003年)
『四十一砲』(吉田富夫訳、中央公論新社、2006年)
『転生夢現』(吉田富夫訳、中央公論新社、2008年)
『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳、中央公論新社、2011年)
どれか一つを手に取ってみてはいかがですか。「どうだ、これが中国の大地の匂いだ」と、きっと物語が勢いよく今を生きるあなたに迫ってくるでしょう。
(*本文の写真は発売元より提供。『赤いコーリャン』発売元:IMAGICA TV DVD好評発売中(C)西安製作所)
注1:二年前に、獄中にいる民主活動家劉暁波[りゅうぎょうは、LiuXiaobo]が平和賞を受賞しましたが、中国政府はそれを認めていません。