ここ数年、気に入っていて、「言語文化」に関する授業の初回で紹介しているフレーズがあります。まずはこんな断章から読んでもらいます。
「愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。」
教室を見渡すと、不思議そうな顔をしている人も多いようです。何だか変なことを言っている、と思っているのでしょうか。好きな人と一緒にいて、その人のことを考えないなんて、ましてや「仕事」のことを考えるなんて、冷たい、失礼だ、きっと愛が足りないのだ、と。そう思う人もいるかもしれません。けれども、私はこの断章に初めて触れたとき、そういうふうには感じませんでした。むしろ、そこに何かえもいわれぬ心地よい空間が描き出されているようで、そこに浸ってみたいと感じたのです。共感してくれる人も、ちらほらいるようです。
なぜ、“恋人といるときの上の空”が「言語文化」の授業に関わってくるのか、といえば、それが、「読む」という行為にも通じているからです。先ほどの断章は、こんなふうにつづきます。
「テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を上げ、他のことに耳を傾けたい気持ちに私がなればいいのだ。」(『テクストの快楽』より)
授業中は先生の言うことを集中して聴きなさい、とこれまで言われてきたことでしょう。文章もつねに集中して読まなければならない、と思い込まされてきたかもしれません。もちろん、集中はとても大事です。けれども、ある意味では、集中して読むことは、ときどき注意散漫になることを妨げない、ともいえるのです。どういうことでしょうか。上記の断章を書いたロラン・バルトというフランスの文学者は、先の「顔を上げ」るという表現を用いて、別のところで、こんなふうに問いかけています。
「本を読んでいるとき、興味がもてないからではなく、むしろ逆に、思いつきや刺激や連想の波が押し寄せてきて、読書のとちゅうでたえず立ち止まる、というようなことが、かつてなかったであろうか? 一言で言えば、顔を上げながら読む、というようなことがなかったであろうか?」(「読書のエクリチュール」『言語のざわめき』より)
電車の中で前の席に座っている人が、読んでいた小説からふと顔を上げ、どこを見るともなく物思いにふけり始めたとき、集中できないんだな、とあなたが気の毒に思ったとしたら、それはもしかしたら大きな間違いかもしれません。その人はむしろ、小説にあまりに入り込んでいるからこそ、そこからさまざまの連想が湧き起こってきて、その流れをとどめることができず、思わず知らず本から顔を上げたのかもしれないのです。そうだとしたら、そのときその連想は、その人だけのものです。その連想は、その人が過去に読んだ小説の一場面かもしれませんし、友人や家族に起こった似たようなエピソードかもしれません。実際、教室で一つの小説を読んでいて、皆が同じ連想や空想、はたまた妄想をするなどということはありえません。「読む」ということはごく個人的な行為なのです。
今学期の講義では、「顔を上げて読む」をキーワードに、「読む」という行為について見直してみることを試みました。もっともっと「顔を上げて読む」ことを愉しんでほしい、という思いからです。一区切りついたところで感想を書いてもらいましたが、「顔を上げて読む」ことを実践している、という人が少なからずいて、とてもうれしく思いました。
ちなみに、「顔を上げて読む」ことを習慣にしていると、同じ本を何度も愉しむことができます。なぜなら、読むたびに、「顔を上げる」箇所は異なってくるからです。