2021.05.17.
英語文化学科安藤 潔

最後の一年

 今年度は私の教職歴の最後の一年です。来年の3月をもって46年間の教員生活を完全に終わります。始まりは修士の学位を取得した年の4月からの大学・短大・高校の教壇で、24歳の時でした。高校で教えたのはこの1年限りでしたが、その翌年、25歳から専任教員歴が始まり、短期大学2校に29年勤めた後、3校目の専任校として本学、関東学院大学に赴任しました。このほか非常勤講師として四年制大学7校ほどでも英語を教えました。
このように教歴の長かった私ですが、当初教職は必ずしも人生の目的ではありませんでした。中高生のころ国内外の小説が好きだったので迷わず文学部進学を決めましたが、英語も得意だったので英文学科に絞りました。しかし教職にはあまり気が進まず、また独特の軽さが特徴の英米小説には、十代半ばまでに親しんだフランスやロシアの重厚な小説のような魅力をなかなか見いだせませんでした。そんなときに出会ったのが英詩、特にイギリス・ロマン派の詩人たちです。自分でも理解できる英語で書かれた英詩が文字の奥に深い意味を持つことを知り、この分野の勉強をさらに続けたいと考え、大学院に進学しました。
当時は大学進学率が伸びていく時代で、教養課程の英語担当教員は常に不足していたようです。一方人文系の大学院進学はごく僅かで、私にも修士取得の直後から非常勤講師のオファーがありました。専任も大学指定で求人があり、後期課程を1年で切り上げて短大に就職することにしました。この後研究に有利な短大に移り四半世紀以上勤め、教育と研究は別物と割り切り、一時はこのまま定年まで短期大学に勤めようと思っていました。しかし「男女雇用機会均等法」以来短大は徐々に志願者を減らし、英語関係学科は改組になりました。学会に参加しても、相応の対応を感じることもありました。また当時の勤務校に併設された4年制大学が「経済」を校名に採用し大学院も設置し、短大もその一学部に組み込まれ肩身が狭くなりました。
この頃、それまで10年ほど探すともなく眺めていたインターネット上の公的な大学教員募集情報のサイトで、本学の公募を見かけたのです。こうして50才代の半ばに、都会に違和感を持ちつつも本学文学部および文学研究科に単身赴任することにしたのです。この時はそれまでの研究成果を専門教育に生かそうと意気込んでいました。
本学在職の16年間に一つの目標としたのは後継の研究者育成でしたが、このためには偏差値と時間が足りなかったという思いです。ゼミなどの指導の学生から大学院進学者は1、2名出ましたが、後期課程まで私の指導下で研究する学生は出ませんでした。しかし修士論文や博士論文の審査の一端は担当し、真の高等教育を経験し貢献もできたと思います。
在任の後半には博士後期課程の科目担当・論文指導の資格も与えられましたが、最後の今年になりようやく私の担当科目受講者が出ました。しかもコロナ禍渦中の外国人留学生です。日本語は使えず英語だけで高度な内容の遠隔講義や指導に対応しています。最後の年に思いがけず得難い経験をすることとなりました。


愛知県「尾張広域緑道」:本宅のある小牧市北部から犬山市南部の部分:緊急事態宣言で横浜に戻れなくなった頃このような場所をよくウォーキングしました。ひとけが少なく静かなのが地方の良さです。


犬山市南西部にある4世紀中ごろの青塚古墳:ここもウォーキングの目標地でした。


本宅近く犬山市南部には大縣(おおあがた)神社の神域に本宮山(292.8m)があり急峻な奥宮参道からは地域平野部一帯を眺望できます。尾張開拓の祖神を祀る大縣神社は約二千年前の垂仁天皇27年に山頂から現在の地に遷座したと伝わります。
写真は2020年秋撮影。