神秘的な「青の洞窟」で束の間の天国気分を味わったものの、まだ「ナポリ見て死ぬ」わけにはいかない私は、ヴァカンスのお蔭でガラ空きの「永遠の都」ローマ (It. Roma) に楽々と帰還しました。
ところで、ミルトン (1608-74) は叙事詩 Paradise Lost (1674、以下PL)の劈頭、サタンと叛逆天使たちが《天界》(heaven) の争闘に敗れて墜落した《地獄》(Hell)、「底知れぬ地獄」(bottomless perdition) の暗黒の無限空間を、すぐれて詩的に「可視の闇」(darkness visible) と表現しています。そこは入るに容易、出るに至難の「戦慄の牢獄」(a dungeon horrible)であり、「凄惨で荒涼とした光景」 (the dismal situation waste and wild) が広がっています。入るに難く出るに易しい「青の洞窟」とはまさに雲泥の差です。
17世紀イングランドを生きたミルトンにとって、現実は「地獄」そのものでした。激しい宗教的対立がもたらした二つの政変 (1649 & 1660)、帝都ロンドンに蔓延した恐怖のペスト禍 (1665)、市内を焦土と化した未曾有の大火 (1666)――こうした社会的事件に加え、完全失明 (1652) と妻子の相次ぐ死 (1652 & 1658) という不幸がミルトンを襲います。それは、一個の人間が耐えるには苛酷に過ぎるものでした。PLで想像力豊に描かれる《地獄》に鬼気迫るものがあるとすれば、それはミルトンが真の「地獄」を経験したからに他なりません。
茫然自失の状態から回復したサタンは、堕天使たちに再度の決起を呼びかけます。
All is not lost; the unconquerable will, 全てが失われたわけではない。不屈の意思が、
And study of revenge, immortal hate, 復讐への執念が、飽くことのない憎悪が、
And courage never to submit or yield: 降伏や屈服とは無縁の勇気が残っている。
And what is else not to be overcome? これらは決して征圧されてはならぬものなのだ。
――PL, I. 106-09)
Satan Arousing the Rebel Angels by William Blake (1808)
上の絵は、19世紀のロマン派詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクがPL のために描いた挿絵のうちの一枚です(the Victoria & Albert Museum 蔵)。サタンの屈曲した精神と強靭な肉体の不均衡なイメジが異様な迫力で表現されています。
このあとサタンは、荘厳な「万魔殿」(Pandemonium) のなかで堕天使たちと復讐の密議を凝らします。ところで、英語の Pandemonium はミルトンの造語(coinage) で、ローマ市内に現存するパンテオン (It. Pantheon) を皮肉ったものです。7世紀初頭に聖母マリアと殉教者のためのカトリック教会となって久しいこの建造物は、もともとは紀元前27年の建立にかかる神殿で、西暦2世紀前半には五賢帝の一人、ハドリアヌス帝 (L. Hadrianus) によって再建されて現在なおその威容を誇っています。変相を遂げた「万神殿」 の佇まいが、若き日のピューリタン詩人の真摯な眼にどう写ったかは想像するに難くありません。
(英語英米文学科 島村宣男)