詩人ミルトンは、17世紀イングランドの政治・宗教の動乱期にあって、「反絶対王制」を標榜する思想家でもありました。イタリア旅行から帰国後、33歳で結婚したミルトンは、離婚の自由を論じた Doctrine and Discipline of Divorce (1643) や言論・出版の自由を論じた Areopagitica (1644) によって論争家としての名を一躍高めます。
王党派と議会派との軍事衝突によって共和国 (the Commonwealth) が成立する驚天動地の政変 (1649) から王政復古 (the Restoration, 1660) に至る約10年間、ミルトンはその卓越したラテン語能力によって新政府の外国語秘書官 (the Secretary of Foreign Tongues) の職に就きます。当時の英語は、まだ西北ヨーロッパの一島嶼の言語でしかなく、かつてヨーロッパ全域に君臨したローマ帝国の言語、ラテン語(文語)が「共通語」(lingua franca) として国際的な発信力を保っていたのです。
ミルトンの過激さは17世紀という時代が生んだものと言ってもよいでしょう。18世紀に入ると、歴史の教訓に学んだ穏健な帝国イギリスは、ミルトンに体現される「過激さ」は不必要なものとなります。海外進出という捌け口があったからです。皮肉にもそれは、ミルトンの死後約100年の後に、「アメリカ建国」(1776) という帝国全体を揺るがす事態となって再現されます。
洋の東西を問わず、18世紀は「天才の世紀」であると言えましょう。近世ドイツのプロイセンには、主著の『純粋理性批判』(1881)、『実践理性批判』(1888)、そして『判断力批判』(1890) の「三批判書」によって近代哲学史に屹立するカント (Immanuel Kant, 1724-1804) がいます。
その膨大な遺稿の整理によって、哲学者カントが詩人ミルトンの、わけても Paradise Lost の愛読者であったことが明らかになったのはごく最近のことです。つまり、「カント読み、ミルトンを知らず」、あるいは「ミルトン読み、カントを知らず」、といった学問的状況が長期にわたって続いていたことになります。
Kant
例えば、最新の岩波書店版『カント全集』の15巻に収められている「人間学遺稿」には、3箇所ほどミルトンへの言及が見られます。
一例を示しましょう。カントは「崇高なるもの (sublime) の表象」がいかなるものかを論じて、Paradise Lost は第二巻の後半に登場し、サタンの地獄からの脱出を阻む怪物 (monster)、すなわち擬人化された『死』(Death) ――サタンとその娘『罪』(Sin) との近親相姦による子――の、「身の毛のよだつような」異形の表現美に及んでいます。
このとき、哲学者の念頭には、詩人の以下の詩行が浮かんでいたと思われます。緊迫感あるブレイクの挿絵を添えて引きましょう。
Satan, Sin, and Death by William Blake (1808)
…… The other shape,
If shape it might be called that shape had none
Distinguishable in member, joint, or limb,
Or substance might be called that shadow seemed,
For each seemed either; black it stood as Night,
Fierce as ten Furies, terrible as Hell,
And shook a dreadful dart; what seemed his head
The likeness of a kingly crown had on.
―――Paradise Lost, II. 666-73
〔 ……もう一体の異形の者は
身体の部位、関節、四肢を識別できるものもなく、
それを形ある者と呼ぶことができれば、
影と見えるものをも実体と呼ぶことができれば、
つまりはいかようにも見えたのだが、夜のごとくに漆黒で、
復讐の女神たちのごとくに凄まじく、地獄のごとくに恐ろしく、
戦慄の槍を振るった。頭部と見えたところには、
王冠と思しきものを戴いていた。〕
(英語英米文学科 島村宣男)