『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が出版され、すでに4か月が経ちました。ものすごい売れ行きでしたので、もう読まれた方も多いと思いますし、いろいろな本や雑誌で紹介され、特集が組まれたりもしているので、もう余り語るべきことなどない気もします。
個人的なことですが、私は電車の旅が好きで、村上春樹の本をよく旅先で読みます。実際、村上文学も旅を扱うものが多いです――多くの文学作品はそうだと言われれば、身も蓋もないですが。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公、多崎つくる君は駅舎の設計をしているエンジニアで、巡礼という言葉が示す通り、旅と非常に関連しているのがこの作品です。元々駅を作る仕事に就きたかった彼は、どちらかといえば地味な人間で、また高校時代仲の良かった4人の友人(赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里)とは異なり、名前の中に色を持っていません。そのため、彼は「個性もなければ、鮮やかな色彩もない、こちらから差し出せるものも何もない、自分は何もない空っぽの容器みたいなもの」と考えていました。
(特急はしだて号 天橋立駅にて)
駅もまたその個性や色彩よりも重要なのは機能性であり、容器として人や電車を受け入れ、送り出すことがその目的といえます。うまい具合に人の中で機能する(立ちまわる)こと、多崎つくる君は欠陥のない駅舎のようにそれを実践してきましたし、その手のタイプの人物が多いのも村上文学の一つの特徴です。(ちなみに、『ダンス・ダンス・ダンス』に五反田君というキャラクターがいますが、彼はその最たる人と言えるでしょう。)そのような色彩をもたない、ある種機械的な人間を村上春樹の作品の中で見つける時、私はドストエフスキーが『悪霊』の中で引用した、以下の聖書の文言をよく思い出します。「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。……』」(『ヨハネの黙示録』3:14-16)。ちなみに、作品の中でも白根柚木という人物は「悪霊にとりつかれていた」設定になっていることから、ドストエフスキーと村上春樹は全く無縁ではないように思います。しかし、そのような「熱くも冷たくもない、なまぬるい人間」、ある意味現代的と言えるかもしれない人間でも、微かな何かを発することができる、そしてそこから関係性が生まれる、これがこの作品の主題の一つだと思います。
駅において重要視されるべきは、機械的な機能性――つまり、人や電車の出入り――だけではないはずです。どの駅舎も、その時々の季節を背景とした過去、記憶という色彩を人に提供しているはずです。人を迎え入れ送り出す駅には、その物質性、機能性だけでなく、どこか人間性があるように思えてなりません。もし現代人が仮に「熱くも冷たくもない、なまぬるい人間」であるならば、人は向かうべき駅、帰るべき駅を持つことが重要であり、お盆という行事がある日本の夏はそのようなことを私に考えさせてくれます。
(筆者の帰省先の一つ、天橋立)