昨年の11月末から産休・育休をいただき、今年度秋学期に復帰しました。戻ってきて、文学部の学生の皆さんの温かさや自由で柔軟な姿勢に久しぶりに触れ、教えられることがたびたびです。たとえば、こんなことがありました。
一昨年のこのコラムで、「大地〔地球〕はオレンジのように青い」というポール・エリュアールの詩の一節についてお話ししました( https://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/column/column-294/ ) 。この一節は、次のように続きます。「嘘ではない、言葉はけっして嘘をつかない」。今学期、シュルレアリスムについての講義の初回(イントロダクション)のなかで、あまり深入りはせずに軽くこの一節を紹介しました。ところが、その回に寄せられた授業コメントは、なんとほぼすべてがこの一節をめぐるものでした。さらに、その次の回やさらにその次の回でも、この一節へのコメントが寄せられ続けました。こちらが予想した以上に、この一節は皆さんにとって印象深いものだったようです。寄せられたコメントは、一つ一つがこの一節の自分なりの読み方を示すもので、ひとの受け売りや、「わけがわからない」といった拒絶反応を示すものは一つもありませんでした。むしろ、「オレンジのような青さ」をある次元ではごく自然なものとして受け取る感性が、文学部の皆さんには備わっているようで、そのことが私には嬉しい驚きでした。ごく一部ですが、コメントのうちのいくつかをご紹介したいと思います。
・「オレンジのように青いとは、自分の目に見えている色は本当に青やオレンジなのかと疑いを持たせる言葉だと感じました。」
・「果物が熟していないことを「青い」というので、「大地は未だに未発達なもの」ということかなと思いました。」(同趣旨のコメントはいくつか見られました。)
・「「オレンジのように青い」というのは、大地の中に爽やかさやみずみずしさを感じ、それを「青い」と表現したのではないかと思った。また、「言葉は嘘をつかない」とは、嘘をつくのはあくまで人自身であって、言葉ではない。他の人には違うように思えても、エリュアールには確かにオレンジのように青い大地が見えているのだと思う。」
・「「大地はオレンジのように青い」というのは、後の「言葉は嘘をつかない」の例のようなものではないでしょうか。嘘というのは、言った本人が嘘だと思っていなければ、嘘にはなりません。エリュアールだけでなく、それは誰にでも当てはまることです。彼は、他人の感性などを誰かがおかしいと思うことに疑いを抱いていたのかもしれません。」
このように、色というもの、言葉というもの、さらには嘘というものについての問い直しを読み込むもの、また、「青い」という表現に比喩的意味を読み込むものなど、研究者も顔負けの幅広い読解が示されました。一篇の詩には、十人いれば十通りの解釈がありうるということを実感した出来事でした。
さて、ある日の四年生ゼミでこの授業のことを話し、話の流れでシュルレアリスム展のカタログを見せたところ、「これは何?」とゼミ生たちの視線が集まったのが、「甘美な死骸」から生まれた作品群でした。「甘美な死骸」とは、シュルレアリストたちが四人一組で実践したゲームで、適当な紙を四等分し、繋ぎ目だけ決めておいて四人がそれぞれ好きな絵を描き、それらを再び繋ぎ合わせて一枚にする、というもの。と軽く説明したところ、「じゃあやろうぜ」というわけで、次の瞬間には紙が配られ、気がついたときには四人のゼミ生がすでにペンを動かし始めていました。本当にあっという間でした。以来、私の研究室の壁には、毎週一枚ずつシュルレアリスム作品が増えていっています。ゼミ生たちの実践のおかげで、「甘美な死骸」に制限時間はあるのか、といった疑問にも気づかされました。今年、「〈遊ぶ〉シュルレアリスム」という展覧会が開かれていましたが(徳島県立近代美術館、損保ジャパン東郷青児美術館)、「遊び」はシュルレアリスムに不可欠の要素です。「遊び」に目のないゼミ生たちにも教えられる日々です。
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