2013年のある時期、私はふと自分が英語の勉強を始めてちょうど50年になることに気付きました。大学で英語を専門にして以降は英米文学研究が主体になり、その後は教える立場になったとはいえ、今日なお自ら勉強するのが自分の本分と感じます。中年以降にはアメリカやイギリス、カナダにて中・長期滞在も経験し、英語と英語圏は一層親しい言葉と地域となり、英語圏の多くの人々とも接してきました。老境を迎えつつあり、来し方を振り返ると懐かしいものがあります。
この50年に気付いたきっかけの一つは、昨年 2020年の東京オリンピック開催が決まったことでした。私が英語の勉強を始めたのは1964年の東京オリンピックの前年、小学校の6年生だった1963年4月のことです。世は戦後何度目かの英語ブームで、進学でも重要科目で私にとっては当時の世界情勢と共に身近なものになりつつあり、好きとも嫌いとも思わず黙々と勉強を続けました。

1960年代の始めには米ソ冷戦の緊迫した社会情勢を子供ながら感じていました。1962年のキューバ危機の時には第3次世界大戦、しかも核戦争が危ぶまれましたが、ケネディの外交が成功しソ連のフルシチョフはキューバから核ミサイルを撤去しました。この時は小学校でも放課時間にニュースの音声が校内放送に流され、危惧感を朧げに意識しました。幸い2年後の東京オリンピックは無事開催されアメリカもソ連も国威をかけて参加しました。女子バレーボール日ソ決戦と日本の勝利は有名ですが、背後にこのような時事があったことはご存知でしょうか。当時北京政府の中国はまだ日本やアメリカとは国交がなくオリンピックにも不参加で、会期の終わりころに核実験を成功させて平和の祭典に水を差したことも思い出されます。閉会式の10月24日にはアフリカのザンビア共和国がイギリスから独立を果たし、期間中に国名が替わった参加国として話題になりました。

1963年の秋に翌年のオリンピックに備えて日米間のテレビ衛星中継の実験が行われました。調べると昭和38年11月23日午前5時27分のことです。関心のあった私は早く起きてテレビをつけました。初の衛星中継で臨時に報道されたのは、その後20世紀の大事件の一つとなる、米大統領J. F. ケネディ暗殺でした。私は12歳の子供にしてこの情報を日本で最も早く知った一人となったのです。
この頃から東京オリンピックを経て以降、海外駐在の報道特派員が現地から生放送でニュースを伝える様子がテレビでしばしば出てきました。当時の私には彼らの活躍が華やかに見えて、将来の夢として「海外特派員」という言葉を口にしたのを覚えています。後には国際ジャーナリストから外交官、はては欧米駐在の「大使」になりたいと大言壮語をして小学校を卒業したことを思い出します。
当時どのように英語の勉強をしていたか、またその後中学で文学一般(小説)とクラシック音楽に出会い、どのようにのめりこんだかはまたの機会にお話できたらと思います。

<文庫キャンパスの風景>

文学部の窓より(以下安藤撮影)

文学部校地南東隣、南フランスを連想する家並み

文学部校地北方、能見台の高層住宅を遠望

文学部中庭:南東より北西向き