2014.07.25.
比較文化学科安井 聖

大学礼拝に出て、自分自身を深く見つめる

わたしは文学部でチャプレン(宗教主事)をしている安井です。関東学院大学のルーツは、明治時代にアメリカの宣教師によって創立された神学校(キリスト教会の牧師を養成する学校)にさかのぼります。ですから今でも、聖書の教えに基づいて教育活動を行なう、という姿勢を大切にしています。

 

文学部では毎週火曜日の昼休みの時間に、大学礼拝を行なっています。オルガンの音に耳を傾け、心を静めて自分自身を振り返ることのできる貴重な時間です。毎週さまざまな方が聖書のお話をしてくださいます。時々キリスト者のゴスペルシンガーに来ていただいて、中庭で音楽礼拝をすることもあります。スピーカーの皆さんは、ただ聖書の内容を説明するのではなく、その方自身に対して聖書の言葉がどのような気づきを与え、励ましを与えてくれたかを話してくださいます。

 

 

 

そのような話を聴くので、学生の皆さんの心の中にもいろいろな感想が生まれます。ですから礼拝に出席した学生の皆さんに感想を書いていただき、翌週の礼拝の出席者にその感想をまとめたプリントを配布するようにしています。学生の皆さんが寄せてくださる言葉の中には、感想だけではなく、質問もあります。そういう質問に対しては、なるべくわたし自身の答えもプリントに載せるようにしています。たとえば最近このようなやり取りをしました。

 

【問い】  宗教って人間の「精神安定」のためにあるのではないだろうかと感じました。だから逆説的に考えて「精神の安定している人」、「悩みの無い人」は宗教を信じる必要がないと言えるのではないか、と思いました。

 

【答え】 わたしは人間が悩みを抱えることや不安を覚えることを、必ずしもネガティブなことだとは思っていません。むしろ人一倍悩んで生きることによって、それだけ他人の痛みや苦しみをよりよく理解することができるようになるのではないかと思います。またそういう経験がきっかけとなり、実に深く物事を考えることができるように成長できるのではないかと思います。聖書の教えはそのような心の成熟に大変役立つと思います。それと共に考えてほしいことがあります。何一つ悩みがない、という人なんて本当にいるのでしょうか。どんな人でも自分が直面している問題、課題と正直に真剣に向き合うなら、悩まずにはいられないのではないでしょうか。そう考えるとわたしは、聖書の教えはどのような人にとっても意義深いものだと思います。

 

学生の皆さんが成長する機会は、大学生活の中にいろいろあると思います。その一つとして、大学礼拝で聖書の教えに触れる経験が、その心の成長・成熟に役立つ機会となってくれたらと心から願っています。