スコットランドはハイランド地方とローランド地方に分けられますが、この区分ははなはだ曖昧なようです。正式にはインヴァネスより北の地域を北ハイランズとし、アヴィモア、ケアンゴームズからフォート・ウィリアム一帯がハイランドの南部で、離島を含めこのすべてをハイランズおよびアイランズと呼ぶようですが、一般的にスターリングとその北東にあたる古都パースの町を境とし、それより北部と西部をいわゆるハイランド地方とするようです。
ワーズワス一行は1803年にダンフリーズを出発した後、じりじりとローランド地方を旅し、グラスゴウを経てロッホ・ローモンド、およびトゥロサックス地区に入りますが、時間のなかった私は高速道路M74経由でグラスゴウも通過、二時間ほどでロッホ・ローモンド南のバロックに到着しました。予約しておいたホテルにチェックインの後に、まだ時間があったのでトゥロサックスを見ておこうと、さらに先に進みました。この地区は思いのほか山深く、英国では珍しい日本の山奥のようなつづら折の山道を超えると突然正にハイランドらしい光景が見えてきました。アクレイ湖と対岸のシャトーのような建物です。このような奥地の湖と湖岸の館<やかた>の光景が、廃墟の城や修道院とともに、スコットランドの風景の一つの典型といえましょう。
ワーズワス一行はロッホ・ローモンド西岸からフェリーでトゥロサックスに入り、当時も今も秘境と呼ぶべきこの地域を一週間ほど巡ります。そこには多くの現地人との出会いがあり、ワーズワスのスコットランド詩が書かれるきっかけとなりました。21世紀の現代でもトゥロサックス地区を巡るには狭い道を通っての旅で数日は必要です。残念ながら日程に余裕のない私はカトリン湖まで至るのも湖上遊覧もあきらめ、ロッホ・ローモンドから西北へとワーズワス一行の足跡を辿り、アーガイル・アンド・ビュートの地区に向かいました。
ワーズワス一行はターベット、アロチャーからインヴェラレイに向かいますが、体調の良くないコールリッジは旅を切り上げエディンバラに戻ると言い、兄妹とは別れます。しかしその実、彼はこの後一人旅を続け、ワーズワス兄妹が行かなかったフォート・ウィリアムからネス湖岸を経てインヴァネスに至ります。エディンバラに戻るというのは兄妹と別行動をとる口実だったのかもしれません。兄妹の方は馬車を使ってロッホ・オウ、ロッホ・エティーヴを経て、グレン・コーという、虐殺事件の歴史で有名な山岳地域に入り、ここから東に向かいます。ロッホ、またはロックという地名は、湖にも、細長い入り江にも用いますので、ロッホ・オウは湖、ロッホ・エティーヴは外洋に接する細長い入り江です。当時この辺りは水際の陸上を移動するより船で水上を移動した方が便利で、古代にはこの一帯から海の向こうのアイルランドに及ぶ海上王国のダルリアダが栄えたそうです。19世紀の産業革命完成を経て多くの入り江や湖には橋が架かり、便利になりましたが、ワーズワスの時代はフェリーというよりむしろ渡し船もどきを用いていたので、馬車や馬を運ぶのが大変で、ドロシーの記録にはその苦労の様が描かれています。詩人のワーズワスがこの間ずっと巧みに馬車を御していたことにはユーモラスなイメージがあります。
Loch Achray and Tigh Mor, Trossachs: ヴィクトリア女王も滞在したこの施設は、現在はホテルの役割を西岸のLoch Achray Hotelに譲っているといっていいだろう。
Loch Lomond between Inveruglas and Tarbet: 対岸の建物があるあたりがワーズワス一行の渡ったInversnaidとみられる。
スコットランド西海岸沿いの名勝地Inveraray Castle:クラン・キャンベルの首領アーガイル公爵の居城。新しく、立派過ぎる城はワーズワス兄妹の趣味にはあまりあわなかった。
四隅の円錐状の屋根と3階部分は1877年の火災の後に増築された。ワーズワスが訪問したころの様子はホームページ掲載の絵で偲ばれる。
http://www.inveraray-castle.com/inveraray-castle-history.html
Loch Awe湖畔北端の廃城Kilchurn Castle:15世紀半ばに初代グレンコリー公サー・コリン・キャンベルが建造。
18世紀には廃城となり、ワーズワス兄妹も廃墟の城を訪問して愛でた。
4月から9月まで内部公開、北側のA85道路からアクセスできるが、増水で洪水の時もあるので注意。
http://www.historic-scotland.gov.uk/index/places/propertyresults/propertydetail.htm?PropID=PL_167
Connel Bridge, Argyll and Bute.
Loch Etive をまたいでいるが外洋につながる入江のため潮の流れが速い。この橋は20世紀に入ってから建設された。このような瀬戸を渡るのに渡し船を使ったワーズワス兄妹は馬が暴れたり馬車が壊れたりして苦労した。
Glen Coeの山並みとA82道路。
名誉革命の時、ジェームズ二世派の蜂起があり、イングランドにより鎮圧されたがその時にこの地でスコットランド人の虐殺(1692年)があり、現代まで遺恨が感じられる。