ワーズワス兄妹はグレンコーから東に進み、テイ湖とその先テイ川河畔のダンケルドとガリー川河畔のブレア・アソールに至ります。私はコールリッジの辿った道を追ってグレンコーからいわゆるグレイト・グレンという地溝帯をフォート・ウィリアムに、さらにネス湖からインヴァネスに至りました。ワーズワス兄妹が辿った方のルートには現在も彼らが泊った宿が残っています。当時はカロデンの戦いから50年余り、宿はまだイングランド軍の兵舎だった名残が強く、ドロシーがそのひどさを批判していますが、その文章を現在の経営者がウェブサイトに引用し、20世紀初頭には大幅に改善していたという、泊った文人の記録を引用し、現代ではきちんとしたホテルでオーナー、スタッフとも泊り客を歓待すると明記しています。このように英国では200年余り前に有名人が泊った宿が現役で残っていることがしばしばあり、その宿泊歴をウェブサイトで誇っているのを見つけられます。残念ながら私にはワーズワスが利用したホテルに泊まる機会はありませんでしたが、16世紀以来営業している所に比較的安い価格で泊ったことはありました。さすがに床が少し傾いていたり、軋んだりはしますが冷暖房やバスルームの施設はしっかりしていて、Wi-Fiもたいてい用意されています。

フォート・ウィリアムは北スコットランドでインヴァネスに次ぐ規模の町ですが、人口は1万人弱、現代ではもっぱら付近のブリテン島最高峰、ベン・ネヴィスなどの登山の拠点になっています。この町は17世紀の清教徒革命時代に発展したようですが、地名の由来はその後の名誉革命で即位したオレンジ公ウィリアムの砦ということのようです。後には追放されたジェームズ二世派の反乱鎮圧の拠点ともなりました。真夏でも最高気温はなかなか20度に達せず、夜は10度を割ることもあり、私の滞在時にも暖房が入っていました。この町から西の方に行くと、グレンフィナンという地区があり、ジェームズ二世の孫チャールズ・スチュアート、いわゆるボニー・プリンス・チャーリーがジャコバイトの反乱を1745年に開始した記念碑があります。彼は翌年インヴァネス北郊外のカロデン・ムアで最後の戦いに敗れ、ハイランドの庶民の助けを借りて逃れ、フランスに亡命します。このハノーヴァー王朝期の騒乱はイギリス連合王国では裏の歴史ですが、スコットランド人には滅び行くスチュアート王家末裔の悲しい物語のようです。

フォート・ウィリアムから北北東に伸びるグレイト・グレン沿いにはA82街道とカレドニアン運河がありますが、それぞれがロッホ・ローキーとネッシーで有名なロッホ・ネスの恩恵を受けています。20世紀に起きた怪獣騒ぎは、どうやら観光振興作戦だったようですが、それ以前からネス湖畔の古城アルカート城は観光名所でした。ここには中世以来要塞があり、13世紀から16世紀にかけて城としての建築が進み、クランの公爵城となったようですが、17世紀末のジャコバイトとの抗争に際して破壊されたようです。ここも廃墟ですが、キルカーン廃城を愛でたワーズワス兄妹がここに来ることはありませんでした。コールリッジがネス湖やアルカート城をどのように見たか関心をそそられますが、ノートブックや妻宛て手紙に歴史に関連した感慨等の記録はないようです。彼はもっぱら自然の光景に目を向け、その感想を記していたようです。

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フォート・ウィリアム郊外コーパックのカレドニアン運河からベン・ネヴィスを臨む。

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フォート・ウィリアムから西に10マイル余り行ったグレンフィナンにある、ジャコバイトの反乱を記念したモニュメント。スコットランドの反乱の心配がなくなった1815年に建造。

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Loch Ness:ネス湖はフォート・オーガスタスからインヴァネス方面に北東方向35キロの細長い淡水湖。

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Urquhart Castle:アルカート城跡はネス湖北西岸インヴァネス寄りの同名の湾の所にある。

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アルカート城敷地内。
http://www.historic-scotland.gov.uk/propertyresults/propertyoverview.htm?PropID=PL_297

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アルカート城北側からの遠景。