これまでのコラムでも触れてきたように、私は国際文化学部のなかで日本史関連の授業を担当している。私は「日本史」の魅力のひとつが身近な場所に歴史を感じられるところにあると考えていて、本大学に赴任してからもその点を大事にしている。
たとえば大学からの帰り道、私はある公園の前を通る。その名前を「白山道六郎ヶ谷公園」という(写真1参照)。
<写真1>
「白山」は「白山道」に由来する。この「白山道」については以前のコラムでお話した。ここで注目したいのはそれにつづく「六郎ヶ谷」である。実はこれも江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』に出てくるような古くからの地名である。同書を見ると宿村の小名の一つとして「六郎谷」の地名が見える。その説明によると「白山の内なり、坂本村に畠山六郎重保の墓あり、それに近き辺りなればかく呼」という。畠山重保は畠山重忠という有名な武士の子である。畠山氏は鎌倉幕府草創期の有力武家の一つであったが、源頼朝死後の幕府の内部抗争で滅亡し、重忠も重保も非業の死を遂げた。その重保の「墓」があるのだという。同書によると、畠山重保がこの地域の山中で自害したため墓があると伝承されているという。現在でも公園のそばに供養塔がある(写真2参照)。
<写真2>
もっとも重保が本当にこの地で自害したのかというとちょっと怪しい。鎌倉幕府が編纂した歴史書である『吾妻鏡』によると、畠山重保は鎌倉で殺害されているからである。この点『風土記稿』の編者も地域住民の伝承を載せたうえでその信憑性には疑問符をつけている。
ただ伝承の真偽はあまり重要でない。重要なのは六郎ヶ谷が少なくとも江戸時代以来の地名と確認できることである。ところが現在の行政地名では「六郎ヶ谷」という呼び名はもう見えない。現在の住所は釜利谷南1丁目である。つまり、地域の人々がこの地域を「六郎ヶ谷」と呼び、畠山氏に強い思い入れを持っていたという歴史を私たちが日常生活のなかで知ることのできる数少ないよすがとなっているのがこの公園名なのである。
金沢区にはこのほかにも「沢木谷公園」「関ヶ谷公園」のように昔の字名を残す公園名がしばしば見られる。どのような理由でそうした名前が付けられたのか。その経緯は残念ながら調べが足りなくてまだよくわかっていない。ただ私はそこに、この地に住む人々が地域の歴史に対して持ち続けた愛着が反映されているのではないか、と勝手に考えている。
そんな歴史を大切にする金沢区にあるのが関東学院大学である。こうした環境のなか足もとの歴史や文化について考える。そんなキャンパスライフもいいんじゃないだろうか?
Column
教員コラム