先の教員コラムでは私の10代のころの文学遍歴を語りました。今回は大学で英文学を専攻して、ウィリアム・ブレイクと英詩に出会うところを主に語ります。
私の母校は英語教育で定評と実績のある大学ですが、当時はこの英文学科の80%が女子学生でした。高校は同学年の四分の三までが男子生徒だった田舎の進学校出の私は都会風の女子学生にはなかなか共感できませんでした。そのころ学生に人気があったのは現代のアメリカ小説で、次はイギリス小説だったでしょうか。私はシェイクスピアやディケンズなどには馴染みがありましたが、ヘミングウェイやD. H. ロレンスをペンギン・ブックで読んでもあまり面白みはわからず、夏目漱石や森鷗外、志賀直哉、武者小路実篤、あるいは同時代の大江健三郎や阿部公房などの国文学ほどの面白さを感じることもありませんでした。
そういえばちょうど大学に入った年の秋に、三島由紀夫のクーデター未遂と割腹自殺の事件がありました。私は『金閣寺』や『仮面の告白』などをすでに中学のころ読んでいましたが、この事件のすぐ後に『豊饒の海』四部作を直ちに読みました。昭和、戦後の傑作との感想を持ちましたが、腑に落ちないのは、なぜ三島が『天人五衰』の世界まで到達していたのに、実人生では『奔馬』で終えてしまったのかということで、いまだにこれは疑問です。彼も実人生が『天人五衰』にまで至っていれば川端康成に次いでノーベル文学賞を受賞していた可能性は大きく、その影響で後の日本社会の歩む道も異なっていたかもしれません。
大学の英文学科では、3年次のゼミ選択でも女子学生が現代の英米小説のゼミに殺到し、アメリカ小説のゼミに至っては一人の先生が二クラスに分けて開講していたかと思い出します。そのような中で私は新たに赴任予定でまだお会いしたこともない先生の担当の、ウィリアム・ワーズワスのゼミに入ることにしました。その一方、3年次4月の登録では、何気なく「ウィリアム・ブレイクの研究」という講義を選びました。このブレイクという作家が小説家か詩人か、画家か哲学者かも知らないまま、隔週二講時連続の講義が遠距離通学の私にもあっているかと感じての選択でした。
ワーズワスは高校2年時のリーダーの教科書にラッパ水仙の詩、 ‘I wandered lonely as a cloud’ が掲載されていて、暗唱もさせられたことがあるので一端は知っていました。しかし4つの連が漢詩の五言絶句の起承転結にあたるとかいった的外れの説明で、その詩の良さはあまりわかりませんでした。大学でゼミに入っても主にワーズワスの詩を訳読するだけの授業はあまり面白くなく、当初はあまり熱が入りませんでした。
しかしブレイクの講義は、『無心の歌・経験の歌』(Songs of Innocencd and of Experience) を精読するもので、数十人の学生が受講していましたが、一人一つずつ短詩を朗読、訳読し、解釈感想等のコメントを自由に付けるものでした。訳読はともかく、解釈感想の部分が私には非常に面白く、また担当の先生が学生のどんな突拍子もない解釈も容認して共に考えるという姿勢でしたので、一緒に受講した学生や先生の解釈が興味深く、だんだん引き込まれていきました。後にこの作品が解釈に多様性のある、20世紀的文学批評に堪えうる要素を多分に持つものとして、ブレイクの評価高揚につながるきっかけとなったことも知るに至ります。
こうして3年の四月にブレイクに接し、夏休みまでには大学院に進学して英詩の勉強を続けようと決心していました。このために卒業論文作成と併行して大学院の入試科目の英米文学史や英語学、さらには第二外国語まで必死に勉強し直し始めました。当時は文系の大学院進学は少なくて、在籍校に博士課程まであることは知っていましたが詳細は不明で、親炙する先生方に直接聞きに行きました。すでに先輩の院生は数人いましたが、母校は戦後の大学で師弟関係や先輩後輩の関係が薄く、情報はなかなか入ってきませんでした。一時は隣の国立大学大学院を受験することも考えましたが、指導教授の「その必要はないだろう」の一言で内部進学に決めました。当時の母校は地元だけでなく、関東、関西、はるか広島あたりからも有名教授を集めていましたが、あとから聞くと大学院を企画創立に奔走した先生のご尽力が大きかったようです。英語学や英米文学界の錚錚たる教授陣が大学院科目担当でした。特にブレイクを私に紹介してくださった先生が人間的に魅力にあふれ、講義中に脱線で語られる四方山話の隅々にまで共感を覚えていました。この先生の下でもう少し学びたい、という気持ちがあり、修士課程から博士後期課程の一年目まで在籍することとなりました。
こうして私はブレイクとワーズワスを同時に学び、ゼミの勉強会ではキーツやシェリーにも関心を持ちました。さらには指導教授の本当の専門だったアメリカ文学のロバート・フロストもだいぶ勉強し、修論にはワーズワスとフロストを絡めることとしました。しかしいつかブレイクを本格的に勉強したいという思いは常にあり、一方でワーズワスやフロストには何か心底からなじめない、わだかまりのようなものを感じていました。
その後大学院を3年で切り上げ、地方の短大に就職したのには博士課程の修了制度が変わったためもあり、また、不遜ながらさすがに7年在籍した母校では学び尽したとの思いがあり、また自宅の経済事情もありました。後期課程2年を残して中退するとき、ワーズワスやフロストを教えてくださった先生は、海外留学も勧めてくれましたが1970年代には1年だけの英米圏滞在でも当時の私の家族の年収の3~4倍はかかり、はなから考えにはありませんでした。
こうして短大の英語教師となり、英語一般を教える一方で20代のころは修論の流れでワーズワスの勉強を続け、地方の学会で二度ほど研究発表をしました。30代に入り徐々にブレイクの勉強を始めて、面白いと気づいたテーマで全国大会の発表をしました。これ以降は博士論文とその内容を出版した『イギリス・ロマン派とフランス革命』(桐原書店、2003年)に直結しています。その事情は同書の「はしがき」、「あとがき」に記してあります。本学図書館に在庫がありますのでご覧ください。
拙著
『イギリス・ロマン派とフランス革命——ブレイク、ワーズワス、コールリッジと1790年代の革命論争』
桐原書店、2003年刊行、現在絶版
ISBN-13: 978-4342627019
金沢文庫キャンパス購買部にて販売
同
『スコットランド、一八〇三年 ——ワーズワス兄妹とコールリッジの旅』
春風社、2017年刊行
ISBN-13: 978-4861105296
(本学人文科学研究所助成出版)