2019.11.14.
英語文化学科児玉 晃二

たかがゲーム、されどゲーム?

 通勤電車の中でスマートフォンのゲームを楽しんでいる人をよく見かけます。アプリの手軽さが決め手なのかもしれませんが、最近では若者に限らず、中高年の方も気軽に遊んでいて、ゲーム文化が生活に浸透してきていると感じることがあります。私の専門である現代のアメリカを描いた小説や映画においても、ゲームが生活風景の一部として登場する機会が増えているような気がします。
例えば、リチャード・リンクレイター監督の映画『6才のボクが、大人になるまで。』(2016)がそのひとつです。タイトルが示す通り、一人の少年が成長し、親もとを離れるまでを同じキャストで12年間にわたって断続的に撮影した非常に変わった作品です。結果として、観客は登場人物(=俳優)がリアルに年を取っていく様子を見守ることになるのですが、人物の外見上の変化と共に、時間の経過を教えてくれる小道具として、子どもたちが手にしているゲーム機(例えば、ゲームボーイからプレステへ)が効果的に使われています。
小説もひとつ紹介しましょう。少し前の作品ですが、ドミニカ系アメリカ人のオタク青年の波乱に満ちた生涯を描いたジュノー・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(2007)。主人公オスカーは『ロード・オブ・ザ・リング』を愛するファンタジーマニアで、TRPGと呼ばれる会話型のRPGゲームの愛好家でもあります。しかし、ある時、彼は次世代のオタクがトレーディングカードゲーム(対戦型のカードゲーム)に関心を移しつつあることに衝撃を受け、「自分の時代が終わりつつある」と悟ることになります。ちなみに、オスカーが受けた衝撃は、同時期に日本のオタク学生だった私が受けた衝撃と重なります。(最新のゲームが素直に楽しめない=「若さ」や「純粋さ」が失われた証拠?)
両作においてゲームは背景の一部に過ぎませんが、細かな点に注目することで、作品のいつもとは異なる側面が見えてくることもあります。とすると、授業中に隠れてスマホゲームに興じている学生は、実はゲームを通じて文化的な背景や概念を学んでいるのかもしれないなあ…と悩みはつきません。