2020.01.21.
英語文化学科入江 識元

横浜美術館で絵画を鑑賞する

 2019年9月21日から2020年1月13日まで横浜美術館で開催されているオランジュリー美術館所蔵品(musée de l’Orangerie)を一堂に集めた絵画展に遅まきながら赴いた。この絵画展は、「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した 12 人の画家たち」と題されたものである。前売り券を買っておきながら、仕事で行く機会を逸していて、ようやく12月に行くことができた。WEBという制約から絵画そのものの掲載や開催の具体的な情報は公式サイトをご覧いただくとして(https://artexhibition.jp/orangerie2019/)、ここでは、私の研究上あるいは個人的な興味から絵画展に触発された事柄についていくつかコメントしたいと思う。そもそも私が絵画鑑賞に常々興味を持つのは、現在研究しているヘンリー・ジェイムズ(Henry James, 1843-1916)に、主人公として画家を配する作品が多く存在するからである。今回の絵画展で紹介されている画家とジェイムズは、まさに時代を同じくして活躍した芸術家であり、それ故、作家の視点を問題とする彼のモチーフに対するまなざしは、これら画家の視点と一致していると考えられる。ジェイムズの作品では、ルネサンス期をはじめ、新古典主義、ビクトリア時代、ロマンティシズム、リアリズムの絵画や絵画的風景描写に関する記述が多く登場する。件の絵画展に興味を持ったのも、その展覧会のテーマが、現在私が執筆している論文のテーマにも拘わっていたというのがその理由だ。

私は幼少期から絵画展に行くことが多くあった。幼稚園や小学校時代には、絵画を描く母やジャーナリストで詩人の父に連れられ、また、中学からは同じ趣味を持つ友人と、上野や銀座、日本橋ほか、近所のデパートで開催される絵画展や彫刻展によく行ったものだ。ピアノを長く習っていたので、絵画を鑑賞することも譜面の解釈に役に立つという言い訳もあり、父親に小遣いをせびっては上野の絵画展に赴き(ついでに)蓬莱屋か井泉のとんかつ、伊豆栄の鰻丼、あるいは蓮玉庵のせいろを満喫し、今も現役で営業している純喫茶の丘か王城で絵画展談義に花を咲かせていたものだ。
絵画展には、そのタイトルにもなっているピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919)や、「印象派」という言葉の生みの親とも言えるクロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)のほか、モンマルトル (Montmartre)にあるアトリエ「洗濯船」(Bateau-Lavoir)に集合した画家の作品が展示されていて、そのなかで今回の展示に関係している画家には、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)やアメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani, 1884-1920)、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882-1963)、それにアンリ・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau, 1844-1910)らがいる。そういえば、磯子警察署からほど近い国道16号線沿いに「洗濯船」というカフェがあるが、この名前もこのアトリエから来ているそうだ。ここはカフェと呼ばれながら結構本格的な洋食を出すお店でメディアにもよく登場する。ビフカツやタンシチューが人気メニューであるが、ピカタライスやオムライス、ミートソーススパゲティなどの炭水化物メニューも捨てがたい。
絵画展でも取り上げられていたピカソの特徴的なキュビズムは、文壇では1920年代にエズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)やT.S.エリオット(Thomas Stearns Eliot, 1888-1965)を中心に起こされたイマジズム(Imagism)と比較されることも多い。イマジズムという詩的実験は、作品への結実という点ではあまり芳しくなかったものの思想への影響は甚大であり、その後のモダニズムを推進する原動力となったものである。キュビズムもその点では同様であり、活動自体は短期間ではあったが、その後の絵画だけでなく写真、建築、彫刻などにも甚大な影響を与えたのである。展示されていたピカソの《布をまとう裸婦》(1923)には、「新古典主義の典型」という説明書きが付いていたが、キュビズムにおいて一度否定したルネサンス的手法への回帰としながらも、ルネサンス芸術における肖像の理想化は見られず、華奢とはほど遠いふくよかな女性の腕や手指、顔の輪郭が印象的である。これは、ジェイムズが小説において描いた肖像画モデルの現実と理想化というテーマにも繋がるものである。
さて、この絵画展のフラッグシップでありポスターや公式図録の表紙ともなっているルノワールの《ピアノを弾く少女たち》(1892)という絵画。当時アップライトピアノが開発され富裕層女子がピアノを習う習慣が広まっていったことがわかる一枚ということだが、おそらくこの絵画のモデルの少女らは、ピアノを弾く真似をしているか、せいぜい「赤バイエル」か「ブルグミュラー」あたりを弾いているのだろう。右手だけが鍵盤上に置かれているが躍動感はない。アルゲリッチ女史のように髪の毛を振り乱している様子もない。少なくともリストの「超絶技巧」やベートーベンの「ハンマークラヴィーア」でないことは確かだ。しかし、私が取り上げたいのは、公式図録にはあるが今回展示されていないオルセー美術館所蔵のもう一枚の《ピアノを弾く少女たち》である。私はこの絵画に、印象派どころかリアリズムのような恐怖感を覚えるのである。私はピアノの先生からアップライトピアノの上には物を決して置いてはならないと教わった。音が共鳴して不快だし、第一不安定で危ないからである。私自身ピアノの上に置いてあったメトロノームが落ちて、危うく指を怪我しそうになったことがある。とはいえ現在も自宅のリビングにあるピアノの上には、熊だの犬だの大小何匹ものぬいぐるみが、まるで王子動物園(神戸市)のフラミンゴのような状態で積み重なり、音を吸い取っている。このぬいぐるみという代物は、知ってか知らずか、演奏中ここぞという旋律で鍵盤の上に落ちてくるのである。先日もショパンソナタ変ロ短調第1楽章における209小節目のアルペジオで猫が落ちてきた。それでもぬいぐるみだからまだましだ。ルノワールのこの絵画でプレイエルのアップライトピアノの上に置かれているのは、なんと花をさした見事な花瓶である。花瓶にはおそらく水も入っているであろう。湿気が厳禁なピアノに対しこんな危ない様はない。だから私は、オルセー収蔵のものよりも、今回展示された《ピアノを弾く少女たち》のほうが、花瓶やら背景やらごちゃごちゃ書き込まれずに人物に焦点が当てられているから好きだ。

オランジュリー美術館のコレクションの多くは、画商ポール・ギョーム(Paul Guillaume, 1891-1934)によるものと言われ、本展覧会でもポール・ギョームの肖像画がいくつか展示されている。写真を見れば確かに特徴的なこの男も画家が様々ないじり方をしているのが見て取れる。私が観たなかでもっとも好意的に描かれていたのはキース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen, 1877-1968)の描く肖像画(1930)で、レジオン・ド・ヌール勲章を絵に描き込み、彼が受勲されたことを宣伝するとは、見事な太鼓持ちである。アンドレ・ドラン(Andre Derain, 1880-1954)の描くポール・ギョームは、シガレットと書物という典型的な知的演出を施しており、もっとも中立的な肖像画かもしれない。逆に、描かせていけなかったのはモディリアーニだろう。この《新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像》(1915)は、これぞギョームというべき顔立ちだが、弱冠23歳のギョームを描いたと言うこの肖像画は、今回の展覧会でベストのモデルいじりである。ギョームはモディリアーニのためにアトリエを借りてあげて面倒を死ぬまで見たというから、かなりお気に入りの画家だったのだろう。しかし、首の長い特徴的な人物を描くモディリアーニのなかで、このギョームはきわめて写実的で人間的だと私は思う。
そのほか、機嫌の悪い女性を描かせたら右に出るものはいないであろうアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869-1954)や、乙女で気怠い雰囲気の女性像が女心を鷲摑みにするマリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883-1956)の絵画も展示されていた。特にマティスの《三姉妹》(1917)には、女性特有の3つの性格が顕著に描かれ、《バイオリンを持つ女》(1921-22)からは「何で私にバイオリンなんか持たせてるのよ」という女性の声が聞こえ、それに《ソファーの女たち》(1921)では、なんともはやその「女たち」がほぼいない。さすがマティスと言わざるを得ない。
絵画鑑賞の果てに最後に吸い込まれるのは、絵画展附設のショップである。今まで鑑賞に浸っていた気分そのままに、いつの間にかこの空間に吸い込まれるとは、実にお誂え向きな配置である。しかもお気に入りの絵画を手帳やしおりやキーホルダーとして持ち歩いては、周囲に高尚な趣味を自慢できるのである。普段10枚100円で手に入るクリアファイルなどは絵画が印刷されると1枚450円。昔はポストカードを購入しては書斎やトイレを画廊にしていたものだが、今では家から禁止令が出ている。とりあえず10分ほど粘った末に『展覧会公式図録』(2,300円、税抜)のみを手に入れて会場を後にした。