2020.03.12.
比較文化学科鄧 捷

木とシラバス

 私事で恐縮ですが、わたしには高校受験を終えたばかりの息子がいます。息子はこの半年、好きだった部活をやめ、教師に決められる評定平均に怯え、模試の点数に一喜一憂しながら、受験のために勉強をしてきました。先日、その息子が国語の宿題で書いた「詩」をぐうぜん目にして、はっとしました。こう書いていたのです。「わたしを流さないで/泥まみれの子供の手足のように/昔にあった嫌な思い出のように/流さないでください わたしは大木樹(だいぼくじゅ)/大空を舞うたんぽぽの芽と/歌い 美しい旋律を奏でる大木樹」。教科書に載っていた詩のパターンに、自分の言葉を当てはめただけのようなのですが、大人のルールに縛られ、その自主性がしばしば無視されてしまう子供たちの、内なる心の声を聴いた気がします。「大木樹」は辞書に載っていない自作の言葉らしいのですが、子供が子供としての自分をイメージするために用いるものは、自然と、たんぽぽや木などの(弱さをはらみつつ成長していく)植物になるのだと、あらためて気づかされました。
なぜこんな話をしたかといいますと、じつは一月から三月まで、新年度の授業のための「シラバス」をずっと書いたり直したりしていて、そこで少し思うところがあったからです。シラバスという言葉、聞いたことがありますか。辞書によれば、シラバスとは「講義の摘要、講義の要目」であり、英語のsyllabusからきたものです(カタカナで英語風にいうとなんだか急に専門用語っぽくて格好良くなりますね)。たくさんある担当科目の計画、内容の概略、予習・復習の指示などを、曜日と時間ごとにひたすら書いていくのですが、そうすると、授業を受ける個々の学生の顔を想像する余裕などまったくなく、まるで工場で大量生産する商品のための「取扱説明書」を書いているような気分になってきます。大学のシラバスとは本来、授業で学生を成長させる、あるいは成長を手助けするガイドとなるもののはずです。ところがいまは、それはあまりに無機質で一方的な、授業のたんなる説明書であり、子供たちが自分についてもっているたんぽぽや木のイメージからは、とても遠いものになっていると思うのです。
いまの大学では、とにかく「シラバス通りの授業」を行うことが要求されます。たしかに、私たちが生きる時代は、もはや彩り豊かな四季のサイクルを大切にする農業社会ではなく、厳しい納期を守って仕様に合わせた製品を大量生産する、工業社会、情報社会です。そのため教育もそれに相応しく、いわば工業化・標準化されつつあるのだと思います。このような時代の流れに逆らうことはあまりに困難ですが、授業を受ける学生が、個々の生を生きる生身の人間であること、たんぽぽや木のような存在であることは、いまも昔も変わりません。大学では、大人数が一つの教室に集まって講義を聴くことがよくありますが、教員として、その学生ひとり一人がたんぽぽであり木であることは、忘れないようにしたいと思います。学生のみなさんの方でも、シラバスをよく読み、教員がなにを想ってそれを書いているのか、考えてみてもらえると嬉しいです。