イギリスの政治外交史を研究している、私の研究対象の紹介第三弾となります。今回はエドワード7世(1841~1910、在位1901~1910)です。いつものとおり、まずは肖像画から。(写真①)なかなか立派な顔をしていますね。
エドワード7世は、大英帝国の最盛期を築いたヴィクトリア女王(在位1837~1901)の長男として生まれました。家族内では「バーティ」の愛称で呼ばれていました。先回の主人公で大伯父にあたるジョージ4世と同様、謹厳な両親の下で将来を嘱望(しょくぼう)されて育ちましたが、逆にそれが重荷になりました。バーティが20歳のとき、父アルバート公の死を契機に、母と子の関係は急激に悪化してしまいました。
それから2年後に、バーティはデンマーク王女アレキサンドラと結婚します。こちらはウィンザー城のチャペルで行われた結婚式の式次第ですね。(写真②)2人は2男3女の子宝に恵まれます。バーティが家族と暮らしたロンドンのマールブラ・ハウスという屋敷です。(写真③)バーティは、長らく政治の中枢には関われませんでしたが、生来の社交好きも手伝い、ヨーロッパ中に王侯や指導者を訪ねて回りました。
20世紀の幕開けとともに母が亡くなり、バーティの治世が始まります。その頃、大英帝国はアジアやアフリカなど世界中で列強と衝突し、孤立していました。ここに風穴を開けたのがバーティでした。彼のフランス訪問は、のちの英仏協商の締結につながりました。さらに甥っ子の「ニッキー」こと、ロシア皇帝ニコライ2世との家族ぐるみのつき合いも幸いし、英露協商も結ばれます。ただしもう1人の甥「ウィリー」こと、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とは折り合いが悪く、英独関係はなかなか改善できませんでした。
81歳まで長生きした母とは異なり、バーティは68年の生涯を閉じてしまいます。その葬儀にはヨーロッパ中から王侯が一堂に会しました。この写真は、葬儀の際に彼の棺が置かれた台のデザイン画です。(写真④)バーティの死からわずか4年後、ウィリーやニッキー、そしてバーティの息子で後継者のジョージ5世の間で、第一次世界大戦が勃発してしまいます。
「エドワード平和王」と呼ばれたバーティの御代(みよ)は、ヨーロッパにつかの間の安らぎが訪れた時代でもありました。