2019.09.11.
比較文化学科西尾 知己

白山道と金沢文庫キャンパス

 「なんで日本史を勉強しようと思ったんですか?」と、よく尋ねられる。そのとき、「普段生活している場を4次元で見ると、日々の生活空間が違って見えてきて面白いからだ。」というようなことを答える。そういうわけで、今年の4月、関東学院大学の金沢文庫キャンパスに着任してから、このキャンパス周辺の歴史を調べはじめている。
たとえば、文庫キャンパスの場所にはかつて古道が通っていた。下に示した地図を見てほしい。京急線の金沢文庫駅をおりて「関東学院大学」行きのバスに乗ると、バスはパークタウンと呼ばれる住宅街を突き抜けて文庫キャンパスまで直線道路を通っていく(地図の黒線)。直線道路へと右折するときの交差点を「白山道中央」という(地図の①)。この「白山道」が古道の名前だ。
白山道は一部が残っており、いまでも道路として使われている。パークタウンを突きぬける道と交差して、すぐ南側を並行して通っている道がそれである(地図の赤線)。地図上で見るとバスから古道がすぐそばに見えそうな気もする。しかし、黒線の道が丘の上を通るのに対して、このあたりの白山道は谷を通っており、実はかなり高低差がある。さらに2つの道の間には住宅もたくさん立っているので、バスから白山道はまず見えない。また、丘上の道は文庫キャンパスをかすめて野村住宅センターへと抜けるが、赤線の旧道は文庫キャンパスが整備されたときに道が途切れてしまったのである。こういうわけで、文庫キャンパスに通う人間にとって、白山道はなじみがない。
しかしこの道の歴史は古い。研究もある(最近、佐藤博信さんが「鎌倉府体制下の武蔵六浦庄の地域的展開」[『千葉大学人文研究』46号]という論文でこれまでの研究を整理されているので、もし興味を持った方はこちらを参照していただきたい)。そこで、これまでの研究によりつつ、この道の歴史を見てみよう。
「白山道」という名前がはじめて史料上に現れるのは、江戸時代の享保16年(1731)の史料とされる。ただ中世の古文書からは、「白山道」という名のルーツとなったであろう「白山堂」なる仏堂が、すでに建武2年(1335)にはあったことがわかる(金沢区役所『金沢の古道』など)。そのためこの時期には、白山道の名前は見えなくとも、その道自体は存在したとされている。この道は鎌倉につながっており、中世の白山道は鎌倉と金沢を結ぶ幹線道路の1つだったといえる。
ちなみにいま名前の出た白山堂。どこにあったのか、厳密にはわからない。ただ現在でも白山社と呼ばれる神社がある(地図の②、写真1)。ここから白山堂もその周辺にあったとされている(熊原政男「称名寺領としての釜利谷郷」『金沢文庫研究』86号 1962年)。
また『新編武蔵風土記稿』という江戸時代の地誌によると、「白山東光寺」と呼ばれる寺院があり、この東光寺が白山社を管理していたという。東光寺は1923年の関東大震災で倒壊し、昭和初期に現在地に移転し、現在は東光禅寺と呼ばれている(地図の③)。移転前の場所は白山社と道をはさんだ向かい側とされている(地図の④、写真2)。
さらに、白山社の西には磨崖仏(まがいぶつ)もある(地図の⑤)。磨崖仏とは壁面に彫刻された仏像のことである。現在は草木で覆われて全く様子がわからない(写真3)。『図説かなざわの歴史』(金沢区役所 2001年)の67頁に掲載されている昔の写真でも、どのような像が描かれたかはっきりしないが、こちらは仏像の輪郭がかろうじて見える。
さて、なにが言いたいのかというと、文庫キャンパス東南の谷(喫煙所奥の林の先)には、かつて白山道に沿って白山堂(社)(②)・東光寺(④)・磨崖仏(⑤)が連なっており、宗教的な空間がひろがっていたということである。ひょっとしたら、いまより多くの人々が行ったり来たりして、ときには仏に手を合わせてお祈りしていたのかもしれない。
どうだろう?興奮しないですか?(しないか…)。今後もこんな感じで足もとの歴史を見ていこうと思う。みなさんも地図を片手に身近な場所を歴史散策してみてはどうだろう?

写真1 白山社の社。壁面に穴を掘った「やぐら」のなかにある。

写真2 道より右側が旧東光寺跡推定地。

写真3 家々の上部、草木でおおわれているところに摩崖仏があるはずなのだが…。
ちなみにこの草木の奥に文庫キャンパス喫煙所の原っぱがある。

地図 金沢区役所で購入した「金沢区図」のコピーに加筆したもの。